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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

歩きながら考えたことや考えなかったこと

選択は人を消耗させる

本屋にふらりと入ったら、あっという間に時間が経っていた。

 

何かを選択するというのは、人を消耗させる、と思う。

特に本屋はそうだ。

 

同じ紙媒体ということで図書館と較べてみよう。図書館には、選ばれても選ばれなくても本がある。一定量ある。整理はされるだろうが、書店のそれと較べると実に緩慢である。『商売』ではなく『知の集積』としての機能だからかも知れない。図書館でさえ、選ぶのに疲れるというのに。

 

では情報ということでテレビと較べてみよう。

テレビは疲れる。情報が次々に流れてくる。が、情報源としてはテレビのチャンネルであるわけで、見ることそのものはすぐにやめられる。勿論本屋も本屋そのものを出てしまえばよいのだが。

それからテレビは、一定以上のスピードでは流れない。自分の処理能力を超えて情報が集積したと思ったら、観ることをやめる、という区切りができる。本屋ではそれができない。すぐ隣には全然別の本があるのだ。異なる内容を多分に内包した本が、自分を買え、と迫ってくる。私は時折それに耐えられなさを感じる。

 

同じ商品という軸で、例えば服やら化粧品はどうだ。

確かに疲れる。ワッと情報が入ってくる。

けれど視覚的過ぎるために、考える暇もなく感覚的に『これは自分には必要ない』という判断ができる。なのであまり疲れない。

しかし『私を買って!』というその呼びかけは書店よりもずっと強烈だ。

少し考えて、そういえば都会が私を疲れさせる理由というのは『私を選んで!』の声が大きすぎてそれぞれにうるさすぎるからかもしれないという結論に至った。

なおかつ『私を選べないお前はカスだ!』という批判つきのときもあるときた。余計なお世話だ。

 

ひとつの解

『必要だろうか?』に疲れ続けるくらいなら、月額最低1万円とか決めて本を『購入しなければならない』という状況を設定してしまえばいいのかも知れない、とふと思ったりもした。

 

本屋での戯言

①読者のニーズについて

小さな書店だから、色んなニーズが雑多に詰まっていた。

女性には料理とかファッション、男性にはホビーというのは少しイラっとさせられるし、最近は『こう生きなさい』という生き方指南書みたいなものが随分増えたように思う。それだけ、現代は生き方が多様化しすぎて、かえって戸惑う人が増えてしまったのだろうか。

図書館が近くにあるお陰で図書館にばかり足を運んでいたし、物を持つのが苦手で電子書籍にしようかと考えたこともあったが、一周回って本や雑誌といった紙媒体はここまで人を翻弄していることにも気づかされたわけである。

 

②情報の取捨選択について

これがある意味第二の結論なのだけど、『情報を取捨選択する』というのは能動的な行為である。この行為について考えることのできる人は、既にその時点で能動性を取得している。

私が最近考えているのは、『情報を取捨選択する自由があるようでない』ひとたちのことについてだ。

テレビしか見ない、見てもバラエティーかドラマで、ニュース番組にしても複数の情報源にあたったり内容を吟味することがない人たちについて。

彼らは恐らく、情報を選択できていると言い張るだろう。チャンネルを変えられるし、テレビ以外も見ている、と。しかしその彼らが所属するコミュニティというのは異常に狭く、外界と交わることがない。その中で得られる情報は勿論得られるだろうが、外を知ることはできない。できたとしても、それはコミュニティ自身の価値判断によってまず取捨選択されてしまうので、本人の口に届くころには既に何重にもバイアスがかかったものになっている。

 

そういう人に正しい情報を伝えるには、アジテーションという手があるな、と思ったのだ。ふと。

周縁に行けば行くほど情報は変質するし、本意は正しく伝わらない。いやそもそも『本意』も『正しさ』も誰かを主体に据えたときの話であるので、受け取る側を主体にした場合はその本意や正しさは仮初のものでしかない。

 

ここからは少し仕事の話が絡んでくると思ったので後に回そうか。

 

 

 

言葉は嘘をつくから、もやもやを抱えたまま暫く生きる

なにか具体的な問題に直面したとき、すぐに問題点や解決策が言葉になる人を大変羨ましく思う。

情報の処理能力が高く、なおかつ感情的に疲弊しにくいのではないだろうか、と少し思うのだ。何故なら自分の奥深く、感情の反応するところまで情報を落とし込んでいちいち情動の揺れ動きを感じる必要がないから。

 

たとえばこうして文字を書いていても、『本当に書きたかったことはこれなのか?』という内から湧き出る疑念に常に曝され続ける。かつ、『この情報を受け取ったとき、自分が予測できる範囲でいったいどれくらい誤解されるか?』などということも考える。そもそも情報が自分の思ったとおりに伝わるなどということはありえない。言葉は口から発せられ、相手が受け取り理解したとき既に本意からは外れているのだ。

 

だから、自分でもどう処理したものか考えあぐねている問題についてはそもそも相手に委ねることができない。必然的に口を噤むことになる。

このクッションが短ければ数秒、長ければ数年ととんでもない幅を持っているわけで、時折それに物凄く苦しめられる。別にこの話題自体も私がたまたま持っている特別なものではなくて、恐らく言語を使ってコミュニケーションをする全員が抱えている葛藤だと思う。それを知覚するか否かは別にして。

 

 

衆愚という言葉の代償に

『見たいと思ったものを先回りされる』

『欲しいと思っていないものまで口に入れられる』

というのは、なんとなく世を閉塞させているものの正体だなと時々思う。

特に、ひとつめの本屋の戯言で書いた取捨選択の自由のない人々にとってその閉塞感は深刻なものになるだろう。

幸福を定義づけられたり、貧困を再生産させられたりするのは、そもそもそこから脱却するための情報にアクセスするという発想を奪われているためだ。奪っている側には、もちろん奪っているという自覚はないだろうが。

 

私はバカなのでそんなに情報に関して自由を持っているとは思っていない。

しかし、見るに堪えない取捨選択の自由の剥奪を見ていると、大きな流れを変えたければ大衆を味方につけるよりほかに道はないとも思わされる。

 

この『大衆』というのが、今の私には「私たち」、つまり専門職集団に思われる。

私たちは職能集団としてはこの業界で最大規模である。規模が大きければ大きいほど、組織の末端は目が行き届かず、組織としての体質も変わりにくい。そして誰もが最低限の技能を発揮しようとするとき、個人の素質に依っているとあまりにもリスクが大きく効率も悪い。

そういったときに考えられたのがマニュアルでありシステムで、一見魯鈍に見えるそのシステムというものは守られなければ正常に機能できない。守る者あっての法律である。人殺しが罷り通っているときにひとりだけ法を遵守してもどこかで通り魔に遭うだけである。

末端にある問題を発端にするのならば、システムにアプローチする方法を取得するのが先決なんだろう。システムを変えたければ、大衆を味方につけるしかない。その大衆というのは、恐らく末端の問題など歯牙にもかけないだろう。さる問題が何故問題になるか知覚しなかったからこそ、システムに組み込まれなかったのである。問題を見つけてしまったら、自分が審議にかけにいくしかない。或いは誰かの手を借りて。審議にかけるシステムがあるのであればそれを頼って。ないのであれば、システムを作れる立場になって。

 

我々はそういうところからしか一歩を踏み出せない。

と、歩きながら考えたのでした。いえ、いつも考えていることを、言葉にしたのでした。