毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

閉塞して歪む、正統派でない感性について

昨日酔っぱらって口から零れた、ある一言が自分の頭の中に残っていたので。

「寄り道した人って、なんで魅力があるんでしょうね?」

 

 

 

正統派でない余剰のなにかが豊かにしてきたもの

思えば中学くらいから正統派というものからどんどん筋がずれていった。

それは服装の好みにはじまり、綺麗だと思うもの、考え方、すべてに影響していく。そうやっていつの間にか高校生くらいには、感性はとても孤独だった。似たような感性を求めるとき、あるいは表出の先がないときはネット上に自分を位置づけていた。

 

話題にしても、思想にしても、なかなかそれを面白がったりノってくれるような感性の持ち主がいなかったのだ。現実には。驚かれたり、そんなことは考えたことがないと遠ざけられたり。

 

 

 

余剰の感性を、それが通じない人の前ではないものとしてふるまう

ミニシアターの映画を観るのが好きだったり、オーケストラをやっていても純粋に音楽が楽しいというよりかはコミュニケーションを楽しんでいたり。

そういうほんのりと感じる「好き」が、通じないとき、なんだかとても閉塞感を感じるのだ。

 

因果関係だけが感情に寄与しているわけではない。

事実→結果(≒それに付随する限定された感情・感覚)という構図がいつも既にあって、事実から人々の予想だにしない結果が導かれたとき、私はいつも「思惑」がないがしろにされているように思う。

事実→(それを知覚する主体)→(主体から発生する思惑)→結果(思惑により大きく左右された感情・感覚)という振れ幅が相手の知覚しえる範囲を逸脱してしまったら、わざわざ相手が知覚できる形式に変換して出力しなければならないのだ。良好なコミュニケーションを成立させるためには。

 

その行為が非常に疲れる。

 

 

 

孤立する感性の完成

けどそういった感覚は恐らく誰しもが持ち得るものであって、たとえば正統派でない集まりに入ったから解消される類のものでもないのだ。

高校生でそんな風に話し相手がいなかったから、じゃあ大学だったら? サークルに入っていたら? ...それでもやっぱり感性は持て余すのだろうと思う。そして、共有しうる人は組織にいずとも共有できるのだ。そうでない人とは、ある程度変換機能である言語を介して相手の受け取れる形にしていかなければ伝わらない。

 

感覚の寂しさを満たされた次の朝の、考え事。