読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

私はどこからきたのか 何者で、どこへいくのか

 

挫折とはなにかわからないけれども書こうと思う。

 

 

自傷について

 

自傷行為はかなり長くやっていた。

最初は多分、ネットの世界でそういう行為があるのを知った。いや、親友がそういう世界に私を引き込んだのと思う。

どこか退廃的で耽美な世界に惹かれたことがあって、自らを傷つけることで何かが昇華されるというのはとても美しいことのように思えた、時期があった。

そのころに薄く手のひらや手首につけた傷は本当に小さなもので、数日も経てば消えた。かすり傷のようなものだった。

 

中学生くらいのころは、数か月に一度、家族に不満を打ち明けてもきいてもらえなかったときに苦しくてそうするくらいで済んだ。怒りを人にぶつけることを諫められて、けれど発散するあてもなく、体を傷つけるという行為に少しそれを委ねていたような気がする。それでもまだ、問題になるようなことはなかった。

 

そのころ多分私は人間関係において限りなく平等であろうとしていた。もめる部活の後輩に対して、平等に接した結果、信頼は得られたが共感を求めていた人間は部を去ったりした。思えばあのころから問題解決型思考であったのだろう。

 

『今ならうまく対応できる』みたいなことをいう人がいるが、それは過信であると思う。自分が違う対応をしたからといって違う結果、それも最良の結果を招くことができるというのは驕りだ。

私は今でも、あの時の結果を変えることはできないと思っている。

そうして部活動という人間関係を通して、ある程度『意見番』であるが『リーダー』にはなりえないということも自覚していった。それを強めたのは高校生のときだった。

 

相変わらず私は高校生になっても吹奏楽をしていて、いやそのころには室内楽をやっていたのだけれど、いつの間にか部長を任されていた。

同時にそのころ、クラスでの人間関係も希薄で、かつ家にも特に愚痴を言ったりもせず(言いたかったが、反論されるのが嫌で言わなかった)、ストレスを内側にため込む癖は日々強まっていった。進路にも悩んでいた。やりたい仕事はあるしやりたい学問もあったが、ふたつが結びつかないことにジレンマを覚えていた。何か行動するにも協力の得方も情報の取得方法もいまいち見つからず、相談相手もおらず、けれど進学は求められて、次第に気を病んでいった。

 

いったい自傷というものがいつから過度になっていったのかはわからない。

自傷というひとつの物差しで測るのはあまり賢明でもないように思う。

たぶん、高校2年生の夏に部長を譲り受けた。その前くらいから、ずっといつも追い詰められていて、何をも愉しまず、鬼気迫るようになっていた。

成績は上がった。進学校だったし、それは喜ばしいことだった。ただ、進学への期待は高まって、私はそれを扱いあぐねたまま、家では定められた勉強をして学校では放課後と土日の部活に明け暮れていた。

 

そして夏が終わり秋が来るころ。

空気が冷たくなるくらいから徐々にものが喉を通らなくなった。食事のたびに胃痛があって、胃薬で誤魔化す日々が続いた。それは冬の直前にさらに顕著になった。

当然まだ部活もしていて部長もしていた。どちらかというと、学校に行っているというよりは部活のために行っていた。

そのころ何を考えていたのかはよく覚えていない。辛かったのかどうかもよくわからない。ただ、進路やなにかでいつも悩んでいたのであろうことだけは覚えている。自傷も一体どれくらいの頻度でしていたのかは覚えていない。ただ、そのころには自傷行為は恐らく腕ではなく靴下で常に隠れている足になっていたような気がする。

 

冬を迎えるころにとうとう限界がきた。確か、テスト期間になって、部活がなくなったとき。昼に授業を聴いていても何も理解できない。ノートを書こうとしても自分が何をしているのかわからない。いてもたってもいられない。そのころになると、その『いてもたってもいられない』感じをなんとか誤魔化そうとして、50分くらいの授業中にさえ手のひらに傷をつけることがあった。痛みでなんとか集中力を保とうとしていた。

相談できる人は誰もいなかった。

いや、ひとりだけいたか。ビオラの先輩。彼女とものちのちこじれることになるのだが、人の名誉が関わることになるのであまり詳しくは書けまい。

 

 

 

▼学校を休む

 

試験期間中に、教室に行くことをあきらめた。保健室ではなくて、地学準備室の狭い部屋を不登校生用に相談室として用意してあった。私は必然的にそこに通うようになった。校舎の4階から眺める冬景色はうつくしくて、そして寒かった。

その冬のことは、よく覚えているが、覚えていなくもある。

恐らく毎日のように家で滂沱していた。自分の部屋の扉を閉めるとわけもわからず悲しみが押し寄せて、嗚咽が止まらず、1時間や2時間は泣き続けた。泣くことができないときは足を切りつけた。毎日、毎晩それが続いた。

精神科に行くことを決めたのは自分からだった。まだ不登校であることも両親に言えず、担任の先生を呼び出したり先輩の力を借りて当時大学4年生の(しかも卒論と就活に追われていた)姉を呼び出して協力を求めた。もう、精神科に通院することについて両親を説得するほどの余裕は私にはなかった。

 

今でも覚えている。精神科にかかりたいのだが、といったときの母親の態度を。

大事な話があるといってもなかなかテレビの前を動かず、なんとか自室に呼び出して話をしてもきいてもらえなかったこと。今でも、自分で生計を立てられない或いは未成年者がそうやって保護者の同意を得なければ通院できないことをとても歯がゆく思う。なぜ助けが必要な人間が助けを求めるために新たに心労を負わなければならないのだろうか。

そうやって、なんとか説得して12月末に精神科への通院をとりつけた。

 

そのころの精神状態というのは、説明はできるが他人のもののようである。

人と過ごす空間では気を張っているので苦しんだり悲しんだりということは一切なく、笑うこともある程度はできる(もっともひどい時にはそれすらも繕えなかったが)。

けれど、ひとりになった瞬間に涙が出てきて、もはや悲しいから泣くのか泣くから悲しいのかといったありさまだった。そうして、学校に行けなくなってしまったことや、将来の不安や、家族への申し訳なさからいつも自責の念が渦巻いていて、自分が憎くて仕方なかった。そのころ、自傷の意味は怒りを鎮めるためというよりは悲しみを紛らわすため、あるいは自罰として行われていた。ほとんど毎日足を切った。そのころの傷は今でも消えることなく畳の目のように私の右足に残っている。

 

学校に行けなくなっても、まだ、部活に行くことはできた。できたというか、それを学校が許してくれた。そして、そのころ唯一残っていた自尊感情を保つことが即ち楽器を弾くことであり、部活を続けることだった。続けられることがある、というのがある程度心の支えにもなっていたが、反対に休むことを遮る障害でもあった。

朝の登校ラッシュが終わったくらいに学校の4階につき、部屋にこもり、時々出された課題をやって、眠れる時は体を横たえていた。多分そのころ、食事はほとんど喉を通らなくなり、野菜ジュースや果物を食べて過ごしていた。家で出してくれる食事も半分以上残していた。

夜は眠れず、泣き通して朝を迎えることもあった。眠れないまま学校に行って、不登校部屋でたまにうとうととする生活を続けていた。

 

3月の終わり、大きな演奏会があった。

練習も続けて、演奏会に向けての事務的な手続きもなんとか周囲の協力のもとやり遂せて、演奏会をなんとか終えた。逃げ切った、という方が近かった。

そして気が緩んだのもつかの間、今度は新入生歓迎会に向けて動き出す。ということは、新学期がはじまる。高校3年生。学年が変わる。教室も変わる。教室に行けるようになるのじゃないかと、多分少し期待されていた。学校からも、両親からも、そして自分自身も。だけど思ったより疲れていた。疲れ切っていた。無理なんじゃないかな、と自分でどこかでわかっていたし、期待がつらかった。恐らく裏切ることになるだろうというのが。

 

4月のはじめだったか、部活から早退して、1か月分の処方を全部飲んだ。死なないことはわかっていた。現在精神科の処方で死ぬことができる薬というのは本当に限られている。当時の生ぬるい知識でもわかっていた。ただ、『休む』ためには理由が必要だった。通学できない体になる必要があった。『休みたい』といえるほど、私は強くなれなかった。誰の期待も裏切れなかった。だから自分を壊すことにしたのだ。仮に、もし仮にそれで死んでしまったら、という思いは勿論なかったわけではないが、死んでしまえるのであればそれでもよかった。それくらい、当時毎日を過ごすことは苦痛以外のなにものでもなかった。

 

生憎母が仕事の合間に家に帰ってきて、私が嘔気で苦しんでいることはすぐに見つかった。救急車を呼ばれ、通院先があるとわかるとそちらに回された。今医療従事者であることから、本当にばかなことをしたとは思う。けれど、それ以外に選ぶ道はなにもなかったのだとも、思う。

通院先が遠かったので、それなりの時間をかけて病院に到着した。左腕から500mlくらいの輸液をされるとき、袖を捲られて、恐らく傷でも見えたのだろうか、『つらかったね』と誰かから声をかけられた。言葉を返そうと思ったが、そのとき初めて涙が出てきて声にならず、ただ頷いた。そこからのことはうろ覚えでしかなく、精神科病棟にストレッチャーで移動したのをぼんやりと覚えている。次に目が覚めたら病室だった。夕日が見えない角度のはずの病室なのに、何故かその日の夕日を見た記憶がある。

 

次に目が覚めると夜だった。母は面会者用の椅子で眠っていて、私は制服以外の何かに着替えさせてもらっていた。病衣だったかどうかは覚えていないけれど。まだ輸液は続いていて、手洗いに立とうとするとふらふらだった。トイレまで支柱台につかまって歩いた。

翌日一旦帰宅し、1週間弱してから改めて入院することになった。

 

 

▼母と父、それから家族について

高校生の自分がこんな状態になって、当然家族は狼狽えた。

姉が2人いて、姉らとは仲が良かったし、精神的な不調にも理解があったのである程度すんなりと受け入れてもらえた。しかし母と父にはどうやって受け入れてもらったのか、あまり覚えていない。かなり苦労したことだけは覚えている。

 

父は職場の衛生管理者もするようなひとだったし、部下を自殺で失ったこともあった。けれど、家族にそういった人間がいるとは思いもしていないようだった。『うちの家族は自殺するくらいなら人殺すやろ』というような発言を聞いたことがある。

母もおそらくそういった問題には無縁で過ごしてきた。

 

私のうつ状態という精神・身体的な不調、不登校という社会的な不調がダメージを与えたのはまず母にだった。学校に通えないと、毎日自分以外の人間から学校に連絡をしなければならない。いけるのか、いけないのか、毎日聞かれる私もつらかったのだが、忙しい時間に毎日連絡をする母もかなりのストレスを受けていたと思う。

私が自傷をしていることが見つかって、夜に自室に来られて1週間か2週間ほど添い寝をされたこともある。なにか話しかけられたけど、それはつらい出来事でしかなかった。結局母が部屋にいないときにもっと泣いたし、もっとたくさん自傷をするだけのことだった。けれど母も私のいないところで泣いていた。父にも言えずに。

 

父はどう思っていたのだろうか。

いまわかるのは、父が海外に出張していたときの旅の記録の最後に、『〇〇が自殺未遂をしたとあり、パジャマを買って急遽帰国することになった。涙が止まらなかった』と手書きで付け足されていることからわかるのみである。

父は私の前では決して涙を見せることはなかった。

 

姉。2番目の姉が、私が自殺未遂をして翌日退院して帰ってから1か月弱の入院をするまでの間に、『楽しかったか』といったようなことを吐いたのを覚えている。何も答えられなかった。いや、答えたかもしれない。覚えていない。数年経ってから当時のことを謝ってもらった。謝られるもなにも、私はそういったことを言われて当然だとも思えるようになっていたので、関係は今でも良好である。

 

そんな家族を憎んだことがまったくないかといえば、そうでもない。

というか、憎むことは外部に委託していた。先述した部活の先輩は、よくしてくれたが、ひとつ年上のだけの先輩である。まだ幼い。自分が持っている両親への憎しみを私が持つべきかもしれない両親への憎しみに重ねたりしながら、怒ってくれた。私はというと、家族を憎むような体力があるわけもなく、そんな憎しみが芽生えようものならさらに感情が疲弊してまた足を切ることになった。

 

 

 

▼入院生活

入院することはそれなりに楽だった。

家族と離れることができて、強制的に罪悪感も排除された。

食事を用意されたのに食べることができない罪悪感や、学校に通えないことからも隔離されて、それは真の休養に近かった。

ただ遠い病院まで母親が毎日見舞いにくることがつらくて、できたらこないで欲しいのだが、と主治医に漏らしたことがある。主治医は特に母を遮断しようとはしなかった。私にとっても母にとってもそれが限界ぎりぎり許容できるかかわりの範囲内で、有害かもしれないが無害にする手立てもなく、今思えばやはりそれも適切なかかわりであったと思う。いずれは家に帰らなければならないのだから。

 

入院中、外に出たのは、他校の定期演奏会が病院の近場であるというので出向いたのと、入院中に出会った摂食障害の女の子とコンビニに買い物にいったくらいだ。彼女はノンカロリーのゼリーを買っていた。どうしてそんなにカロリーがないものを摂取したがるのかわからなかった。彼女の体重は30kgを下回っていた。かつては80kgを超えていたのだという。彼女の母親はとても太っていた。なるほどなあ、と思った。

 

私の入院は1か月弱と短かった。とにかく環境から離れるための入院だったので、退院して帰るときには桜は既になく、新緑が青々として汗ばむほどだった。目が緑を刺して、世界はうつくしくて、絶望したのをよく覚えている。現実に帰ってきてしまった、と思った。そこからは泥沼の戦いが続いた。

 

 

 

▼社会に戻れない。

学校生活に戻ることはできなかったが、部活に戻ることはできた。新入生がいて、チェロにも後輩がひとりいて、こんな自分が戻ってもいいものか悩んだが、部長をさせてくれた。相変わらず私は自分にも他人にも厳しくて、優しくなんかはなれなかった。周囲の人を追い詰めながら自分自身を追い詰めていたことに、気づきながらもやめることはできなかった。

進学校だったので、受験が控えていた。けれど私は相変わらず教室に行くことはできず、また集中して時間をとって勉強することもできなかった。いつも疲れていて、泣いて、そうでないときは自傷をした。

ただ、冬の間と違って時々は、週のうち何日かは教室での授業もなんとか受けた。成績だけは良いのが悲しかった。3年生はありがたいことに受験用の復習くらいだったので、改めて勉強する必要があまりなかったのだ。ただ、出席日数が足りなくて追試が必要だったから、夏の間はたったひとりで補習を受ける授業もあった。

 

部活は、夏の演奏会でほかの3年生と一緒に引退した。

元気になった今では、部活になんてこだわらずにさっさとやめて休学でもして復帰したら進学もできたのではないか、なんて打算的な考えが頭をよぎることもある。

だけど、こんなに大きな失敗というものをしたことがない人間が失敗して退くとき、殿をそんなに立派に守れるわけがなかった。今でも間違った選択をしたとは思っていない。

 

夏ぐらいから、音楽療法を職にできないかと思い、資料をいくつかあたった。というか、集中できない状態でも進学できる方法をと模索した結果が芸大だった。レッスンも受けに行ったし、当時もともとレッスンをしてくれていたチェロの先生にも相談した。けれど結局は体力もまったく戻っていなく、夏の無理が祟って秋にはまた床に臥す生活に戻ってしまった。またひとつ自信を失って、楽器なんて弾けなくなってもいい、と泣き暮れて左腕を深く切った。保健室で先生に見つかって、近医で縫合してもらったが、結局それも自分で抜いてしまった。不格好な白い傷が残った。

 

なにも良くならないまま自信だけがなくなっていき、冬には就職活動のようなものもしてみたもののうまくはいかなかった。激しく泣いたり毎日足を切るといったような衝動性は薄くなりつつあったものの、食欲も戻らず昼夜逆転も治らなかった。当時、体重は今より10kg近く減っていた。

 

結局卒業式も同じ会場では受けなかった。逃げるように卒業して、何もなく、時々伯母の司法書士事務所で事務作業を手伝った。それすらも自分にはかなりつらかった。外に出るというのは『ちゃんとしていなくてはいけない』ことで、自分にはかなり労力を要することだった。

卒業した年の冬には郵便局の長期アルバイトを始めた。単純作業だったので頭の疲労も少なかったが、週に5日、4~5時間であっても働くのはなかなか大変だった。結局そのアルバイトは、半年くらい経ったら年上の異性が何やらコナをかけてくるので面倒で辞めた。

 

その前後でもずっと将来への不安があって、アルバイトで食いつなぐ気はまったくなかった。どちらかといえば、社会へ戻るための自分への訓練だった。立ち直ろうとして何度も失敗しているためこれ以上他人に迷惑をかけるのが怖くて、石橋をたたき続けているようなものだ。

郵便局をやめるのと同時くらいに、看護学校について調べ始めた。学費も安かったし、将来もそれなりに安定している。人の世話が自分にできるとはまったく思わなかったが、できないことはないだろうと思った。

なぜ看護師を思いついたかというと、入院中に実習生が訪室したからだ。私と同じ高校を卒業した4回生だった。受験生のときにパニック障害になったのだと言っていた。今思えば個人情報保護はどうなっているんだと思うが、そのときの出会いがなんとなく頭の片隅に残っていて、やれるものならやってやるという気持ちになった。

何より高校2年生を最後になんの勉強もしていない自分が今更大学受験をするのに、恐らく予備校に行かねばならず、さらに大学生活を送って就職活動をするのはあまりにも無謀に思えた。

 

看護学校に入るのは私にとっては簡単なことだった(後に、とても苦労して看護学校にきたという人々の話を聞いてとても驚いた)。そして、特別に尊い仕事だとも思っていなかった。私のように行く当てのない人間が、適正だなんだといわず、たまたま流れ着くものだと思っていたのだ。

 

結局そのあともうつ状態はずるずると引きずりながらほとんど勉強せずに受験し、合格したので1番安い学校に行き、それでも時々の自傷はやめられなかった。きちんとやめられたのは、実習を休んで留年した年だ。しんどくなったらもうとりあえず立ち止まろう、何が何でものために自傷しても何も解決しない、と思ってすべて諦めた。そこからは意外にもすんなりと実習に行けて、卒業して今に至る。

 

 

 

▼なにが挫折だったのか

挫折、というのは難しい表現だ。

まず社会生活が挫折した。普通の生活が送れなくなり、元に戻るために学生生活も含めて3年以上の時間を要した。

次に人生が挫折した。進学校にいて、多くは有名私立か地方国公立に入る学校だったから、進学もせず就職もしない卒業なんていうものに耐えられなかった。学校に行かないことにも耐えられなかった。耐えられないことがたくさんあるのに、ひとつずつ丁寧にしかし確実に手折られていくのはたまらない屈辱だったように思う。敗北の味は実に苦かった。

 

 

 

▼取り戻したもの

ただ、黙って負けたわけではなかった。正確には、負けた時には黙って負けたが、取り戻すときには実に雄弁だった。

ひとつひとつ挫けながらも社会生活を手繰り寄せるのはつらい作業だったけれど、少なくとも労せず手に入れるそれより、勝利の味は何倍もうまかった。

勿論それが誰かに誇らしかったことは一度もない。労せず手に入れることのほうがずっと尊いこともわかっている。けれど、失ったものを倍にして取り戻すときの快感、『負けた者の戦い』みたいなものもある。負けないとわからない味がある。

 

私はまだ駆け出しの社会人で、何かをなしたことなんて一度もない。誰にも認めさせられるものがない。ただ、働いて生活をしているだけだ。

それでも毎日が生への実感に溢れていて、世界はうつくしく見え、毎日生きるか死ぬかの選択を迫られてそして生きる方を選び取っているように感じる。

それが前向きかといえばまったく前向きではない。まして人にわかってもらおうだとか、うつから立ち直ったからえらいとも思いはしない。何よりうつは治ったわけではないのだ。今は鳴りを潜めているだけで、いつでもまた私を喰らいにくるだろうという予感がいつもしている。だから無理をすることはできない。死にもの狂いになることはできない。それはもうやってしまったのだ。

 

挫折は幸せなことではない。誰かに誇れることでもない。ただ、自らの芯を鍛えることだけはできる。それがいつかまた折れることのないように鍛えることもできる。

恐らく私はうつにならなければ看護師になることもなかったろう。そんな職業は他人に任せようと思っていたはずだ。こういう歪んだ認知を抱えている自分が人をケアする職業に就くことが褒められることとは限らないが、それでも世が認める限りはまだ働き続けるだろう。自分が生きていくことを肯定するという私利私欲のために。