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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか - Wikipedia

 

何故タヒチなのでしょうか。

何故フランスではなく、わざわざタヒチを描き、そしてそのタイトルなのでしょうか。

タヒチという土地を勿論私は知らない。太平洋にある島国ということしか。

そして比較的豊穣な土地であるということくらい。観光にも利用されるのだろう。

住民の暮らしは、ゴーギャンのような芸術家や、或いは文化人や、或いは資産家に風景のひとつとして消費されるだろうか?

まあそんな投げっぱなしの疑問はいいです。本題に入りましょう。

 

年が明けても、相変わらず考えることで苦しんでいます。

最早苦しむことは必定のことであり逃れ得ないことのように思います。

最近は精神的に悩むだけでなく体調にも変調を来しかけているので、あまりよくない兆候であるようにも感じるのですが、相変わらずコントロールが難しいのは逃れ得ない事柄ですので諦めています。

 

私は自分にメソッドを導入するのが嫌いです。

例えば他からの言葉を借りて、特に、『自己の管理方法』を他から納得させられるのが嫌なのです。どんなにうまくいくといわれても、本人が得心してそれが最も効率がよいのだと確信できなければ導入されることはないでしょう。その知恵を、まるで万人に通用するのだとでもいうのに一から了まで定義づけられたものを渡されるのがたまらなく嫌なのです。死んでも従ってやるものか。

いや何かを押し付けられているわけではないのですよ。

ただ、自分の管理方法ってもっとファジーでフランクなものでもいいんじゃないですか?と思うだけです。気の赴くままやりたいときにやりたいことをやればいいじゃないか、と。何故そんなに厳密に管理する必要があるんです?

 

 

▼我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

という疑問さえも本題ではないのですけれども。

さて、今回のタイトルにもしたのですけれど、そういう話に立ち返りたいと思います。

勿論日々働き、生活しているわけですけれども、根底にはずっとタイトルの問いがあふれ返っていてすぐに頭を悩ませます。悩むことは悪いことではない。ただ支障が出ることが困ることなのです。そうしてそういう問題は書くことでしか解決されない。人に何かを直接いうこともおそらくできない。青臭く苦しむしかない。

 

哲学的な問いは今はよしておきましょう。

ちょうど、最近苦しんでいたことと3つの問いがマッチしたのでたまたま借りてきただけなのです。

①どこから来たのか?

つまり来歴・個人史ですね。それなりに整理というか、一区切りつきました。就職して働けているということで。

思い返してもつらい人生、かも知れません。わからない。中にはもっとつらかったり、努力したりしている人もいることでしょう。でも感覚として、二度と繰り返したりしたくないし、やり直したくもないし、ともすればまだ希死念慮が芽吹くことがあるくらいにはつらい人生でした。今ここで多くは言うまい。ただ、いつでも『よくやってきた』と自分だけは思うことにしています。他の誰が納得しなくても。

 

②何者か?

これについても、社会的な立ち位置を得たり或いは内面を暴き立てる作業に取り組むことである程度確立できた気がします。根源的な問いは、またしてもおいておきます。

 

③どこへ行くのか?

どこへ行くのか、が恐らく毎日のように頭を悩ませているのだと思います。

幸いにして私は生涯かけても飽きないような仕事を得ることができましたし、その働き方は千差万別ですし、学ぶところに通じることもできます。これほど面白いおもちゃはありません。そのおもちゃを得てしまった自分という赤ん坊をどこへ転がしていこうという話なのです。①、②を踏まえた時に無茶はできんのです。それがたまらなく、本当にたまらなく悔しいのです。

 

世の人は若人は一度くらい死ぬほど頑張れ、無茶をしろという。

私は既にそれをしてしまって、心も体も自分で壊してしまったので、もうそういうことを自分に課すことができないのです。あんまりだと思います。もう一度、壊れるくらい頑張りたいといつも思います。けどもうあんなことはしてはいけないのです。自分が何か成すより先に周囲に甚大な被害を与えてしまったり、今でさえ戻らない傷を負っているのにそれ以上何か負担をかけることはできません。

 

この感覚を誰かと共有することはできるんだろうか、と、たまに思います。

 

私はもうしんどかったときのことを覚えていません。いや、事実としては覚えていますが、同じ状態を想起してもそれは今思いだすことで、当時と比較すると生ぬるい記憶でしかありません。

 

たぶん、生きながらにして死んでいるとか、地獄とか、そういう言葉が相応しかったのだと思う。それがなくなって、けれどこれからの生活ではブレーキをかけながら生活しないとすぐまたそこにハマってしまうかもしれないという恐怖と隣り合わせになる感じ。そしてたまらなく悔しい感じ。

 

それをひっくるめて、だからだめなんだとか、甘ったれていると言ってくる人はたぶんいると思います。いや、もう頑張るなと言ってくる人もいます。

どちらにももうあまり耳を貸す気はありません。罵りたければ罵ればいいし、引き止めたければ引き止めてみればいいんです。私も時々止まりたいと思う。

ただ自分でも止められないものだけが先に行かせてくれるのだとも思う。ずっと、抑うつに沈む前から何か遂げないといけないという焦燥感があって苦しんできたのですけど、もうそれをセーブするのもいちいち疲れるのです。二頭の暴れ馬を調節しているようなものです。

 

今年の目標、これにします。

我々はどこへいくのか、を明確にする。