花とアリス、バレエのシーンだけ観たことがあったのですが、全編観たことがなかったもので。というかいま確認したら読者の方が複数名おられることに非常に驚きました。私ならこんなブログは読みたくない(だったら読みたくなる文章を書けばいいのに)。
そして、花とアリス自体の感想ではないことを最初に申し上げておきます。映画の論評をするのはあまり好まないもので。
▼そういえば友人の家も汚かった
アリスの家、汚いですよね。私の親友の家も汚かったです。多分同居していたら喘息起こしていたレベル(そんなことはしないので関係ないけど)。
友人も中学生くらいから岩井俊二氏の映画が好きで、よく私も一緒に観ました。
そういうこともあって、映画を観ながらふつふつと昔のことを思い出していたのです。
▼バレエへの憧れ
身体表現技法としての舞踊がとても好きなのですが、やっぱりバレエへの憧れは一入。好きなんです、バレエ。
『ブラック・スワン』は映画として好きかと言われるとそもそもジャンルがあまり好きでもない(怖いのとかドロドロしたの苦手)のですが、バレエというモチーフがよい。ロリホイホイというか趣味丸出し映画として有名なエコールもいいですよね。
Ecole (エコール) japanese trailer - YouTube
▼少女映画は少女そのものを描いたものではない
少女性への幻惑は凄まじい威力があるように思えます。
というか、ビョルン・アンドルセンの出ていた『ヴェニスに死す』なんかを観ていると、大人になる直前の少年少女にはそういう魔力が宿っているようにさえ思う。
けれど、当の本人たちにその自覚はなく、そしてその自覚のなさこそがまた価値を高めるのですよね。価値に気づくということは、すなわち大人になることを指すとも思うので。
自分の少女時代、つまり中学や高校のころを今振り返ってみても、もう大人になった自分からの茫洋とした考えでしかないのではっきりと思い出すことはできません。
しかし映画を観ながら、感覚として『ちがう』と思い出したんですよね。
『それは、本来少女の持っている少女性ではない』と。
少女映画を作るのはたいてい男性で、そして大人です。彼らが観察した少年少女は、少年少女が主体的に感じている感覚とは別の感覚を携えており、当然本来のものとは異質のものでしょう。
世に持て囃される少年性あるいは少女性、もっと言ってしまえば処女性のようなものは、自身が持ち得るものとは異なる。これが諸々の感覚の齟齬の原因になっている気がします。
▼うまく言葉にならないこと
いろいろ悩んで将来の道を定められず、かといって愚痴も吐き出せずといった生活を数年続けた結果かつて私はうつ状態になったことがあります。高校生の半ばくらいでした。すべての感覚が鋭敏になり、そしてその感覚の受け取り方も表出の仕方も極端な悲しみによってしか表されなかったことをよく覚えています。
それはそれは激しい悲しみでしたし今考えても思い出したくありません。もちろん思い出すこともできないのですが。
しかし中学生くらいのころは、まだ何かを思い悩み始める直前の段階で、恵まれた環境のなかにあって浮遊し、具体的なことに悩み始めるというそのことが抽象的考えの発達であったように思います。
冒頭に出てきた家が汚い私の親友はこのころに思い悩んで不登校になっていました。なかなか彼女の家も特殊な家でしたが、私は当時の彼女のことを受け入れはしても理解はできなかった。
映画を観ていて少し、彼女の感覚を理解したような気がしたのです。
物語そのものの美しさより一瞬の空気感、表現される情景の温度、そういったものに敏感な子だったので。ちなみに彼女はその後美術系の高校、大学と進学して留学し、いまだに海外の美術・芸術系の学府をうろうろしています。実に彼女らしいと思います(私がこんなことを思うのは勝手なことですが)。
漠然とした不安に駆られて身動きが取れなくなることは、実はそんなにおかしなことではないのでしょう。問題はそんな状態に行き当たったとき、周りがどういう風に本人を受け入れることができるか、なのかも知れません。
私自身は結局療養と社会生活への復帰のために、軽いアルバイトや進学を経て今は普通に働いています。働くだけでなくそれなりに野望もあります。ちなみに高校卒業からは6年経っているので、ストレートに何か経験を積んだ場合は大学院を修了できる年限なのですよ。医療系なので、それに換算すれば医学部・薬学部(薬剤師免許を取得する場合は)を卒業できますね。
なので、その数年間で何ができたかと後悔してしまうことがままあるのですが、ここに行き当たって高校のころ悩んだ問題にやっと戻ってくることができました。『その経験を積んだとして、何ができるのか』という。
進学した後もわざと留年して休養を挟んだりしていたので、人生は相当に順風満帆と言い難い状態です。けれどストレートに例えば何か学問を修められたとして、そのとき自分には何が残っているのかという問題には結局行き当たるでしょう。
職業柄科学とも哲学とも縁のあるところにいますが、科学するにあたって必要とされるのは元となる哲学というか、方向性ないし指向性です。検証したい事柄と方針がそこになくして研究も科学も始まることすらできません。私はたぶん、その始まりで悩んでいたので。
しばらくもう何本か岩井俊二映画を観ていろいろ考えたいです。よかった。夜勤行ってきます。