毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

身体感覚についてのこと

こんな本に手を出すほどには、身体感覚について日々考えている。

皮膚・自我

皮膚・自我

 

 

①看護について

Twitterではたびたび書いていることだけれど、自分で思っているより、人間への接触が好きだ。

接触されることについてはまた後程別口で書くけれど、今ここでは仕事上でケアをする際の接触についてのこととする。

 

私たちは仕事で人に触れる。

そうしなければ業務を遂行できないし、ときにそれそのものを目的としていることさえある(タッチングとかいうのだが)。

するとどうだろう。

毎日接触回数・時間の多い患者(つまりは一般的に必要な介助の量が多く、人によっては「面倒だ」と称されることもある)ほど、言語的なコミュニケーションよりも情報量が豊かになり、意思疎通がしやすくなるのである。当然接する時間も長くなるので当たり前といえば当たり前の現象なのだが、言語がいかに不十分なコミュニケーション手段であるかを痛感させられる。

そしてそれ自体は一般的なことかも知れないが、私の場合は、接触回数の多かった患者の皮膚や触覚の情報がありありと自分の肌に刻み込まれる。経時的な変化にどれだけ気づけているかといえばそこはまあしがない駆け出しであるため、なんともいえないが。そしてそれに伴い、その人物(この場合は患者)への愛情というか肯定的な感情となって、皮膚や身体そのものへの愛護的なケアとなっていくのである。

 

学生の頃、人工呼吸器を使用している患者の全身管理に憧れたことがあった(今もないわけではない)。

きっかけは、思いがけない終末を迎えつつあるDNAR(Do Not Attempt Resuscitation:蘇生可能性のない患者への積極的な救命措置を行わない)のある患者が死を迎えるまで、日々行われていたケアではないだろうか。

それは浮腫んだ腕や足、背部や臀部を除圧し、粘膜をケアし、”ままらないが、可能な限り最善の死を迎える”ためのケアだった。それまでにも言語化できないまま意識下にはあったのだが、いま可能な限りの最善の死を迎える準備を手伝うということは、即ち現行で最良の生のかたちでもあると思う。

これは医療職ならではの発想でもあるように思うので、是非非医療職の方と意識をすり合わせてみたいものだ。

結局その患者は、私たちが実習の間に1日だけある夜間実習の日の明け方に亡くなった。別に運命を感じていたわけでもなんでもなかったが、その死に様までを意識のないままに文字通り身をもって見せてくれたわけである。

私は多少不謹慎な人間なので、当然そんな時にも心電図の波形を見て「おお、これが生のVT(心室頻拍)か」「なるほどこれがPEA(無脈性電気活動)か」などとしっかり学ばせていただいていた。我々を支えるのは人の死への感傷ではない。もちろんそれも必要ではあるのだが、最低限の知識なくして感傷を許される立場ではないからだ。そんなわけで学生時の不謹慎をお許しいただきたい。

 

②身体を意識して動かすことについて(私の場合はチェロと水泳)

さて、話が逸れてしまった。

久々にたくさん泳いだり楽器を弾いたりすると、自分の筋肉や神経が「慣れて」いくのを感じる。一度したことがあるはずの動作なのに、期間があくと忘れてしまう。それは脳というメモリが忘れているのかも知れないが、末梢神経やその先の筋肉という「回路」あるいは「出力装置」が忘れているかのように感じられることがある。

2日続けて泳ぐと、2日目は水に浸かった瞬間から1日目よりぐっと水に慣れているのを感じる。水を掻く筋肉の動きも、慣れてしなやかなものである。

弦楽器を弾くにしても同様で、ほんの些細な筋骨格の動き、あるいは数mm単位の距離感覚を触知することについて慣れが生ずる。それは意識下でプログラムすることも可能なのだが、反復動作により無意識のレベルに落とし込んでしまった場合はるかにメモリのキャパシティが空くわけで、その分余計なことを考えたり気を回すことができる。面白いことだ。

 

今日考えたのは、例えば水泳選手やチェリストの脳をよく鍛えられた別の同業者の身体に移植できたとしたらということだった。

いくら磨き抜かれた肉体でも、自分の体で覚えた距離感や皮膚の感覚が使えなければ、元の能力を発揮するには苦労するのではないだろうか、と思ったんである。

 

③皮膚への接触について

と、ここまで身体への愛情をつらつらと書いてきたが、「接触されること」は極端に苦手である。というか、過緊張状態に陥る。

もともと五感が過緊張状態にあり、かつ皮膚の接触に精神的な要素を見出しているためか、皮膚の距離は心の距離のように感じられる。それを容赦なく詰めてくるひとは、老いも若きも男も女も恐ろしい。子供は好きだが、苦手なのもこれがためである。

 

たとえば私がまだ女子中高生(!)だったころ、女子というのはやたらと人に接触したがることが多くて苦労した。当時はそれそのものを楽しんでいるときもあったのだろうけれど、今思うと恐ろしい。

心の距離についてまだそこまで深く考えていなかったから受けいれることができていただけで、いまのように人との距離を意識するようになってからは、もう安易な接触にはきっと耐えられないのだと思う。

 

私の考えが一般的なものかどうかはわからないが、「顔が近すぎる」とか「空気が読めない」と言われがちな人には、一度試してみていただきたい。相手と接する時の位置関係、そのときの相手の様子(一歩引いたとか、視線を逸らしたとか)を観察してみれば、何か見えてくるものがあるような気がする。

つまり、『心の距離』は『身体の距離』でもあるのだ。身体の距離を取りたがっている様子の相手に無理に触れれば、それは心のプライベートゾーンに土足で上がり込んだも同然である。もちろん上級者(そんなものがいるのかどうか知らないが)ともなれば、敢えてゾーニングを無視することで関係を構築していく猛者もいるのかもしれないが、いわゆるコミュ障にはまったくおすすめしない。人間関係を崩す一方である。

 

なおこの記事がまったく参考にならないことを証明するためにひとつ書き足すべきことがある。私はコミュ障だし空気も読めない。