毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

お経を聴いていると涙が出てくる

夜勤明けで趣味の寺社仏閣巡りをしてきた。ただ巡るだけでなく、写真を撮るという名目付きで。

 

 

よく寺に行くのは、古い建造物が好きなのと、植物との色合いが美しいからだ。

そして僧侶がいるのもまたよい。勤行のお経が聞こえてきたりするとその場から離れがたくなる。

今日もそんな日だった。

 

法要に居合わせたので、一般人の座れる場所に座って黙って聴いていたら、色々なことを考えてしまい言葉にならず、そうしてただ涙が溢れた。だいぶ怪しい人だったと思う。

 

 

▼祈りについて

思えば祈ることについて、かなり昔から興味を持ってきた。

今日のこともそうだった。どこから書けばいいかわからないし、書きたいことがありすぎてきっといつも以上にまとまりのない文章になることを先にお詫びしたい。

 

1)祈りを肩代わりしてもらうことについて

死者への祈りは死者のためではなく、生ける者、遺された者のためにこそあると思う。生きているからこそ祈るのである。死者は祈らない。

 

仏教で有名な話に、子を亡くした母の物語がある。

うろ覚えなので間違っているかも知れないが、我が子を亡くして悲しみに暮れる母が、シッダールタから家を訪ね歩いて死者のない家を探せと言われる。母は言葉通りに家々をおとなうが、当然死者のなかった家などなく、誰しもが死の悲しみを抱えて生きていることに気が付くという話だったような気がする。

 

これに代表される通り、仏教の本質は各々の『覚悟』にあるように見える。おぼえさとる、つまり自ずからその感情や理屈が発せられることにこそ重きを置いているように思う。そしてそれを促すのが経典である。

 

しかし、誰しもが他者の死を悼んだところで胸の痛みが消えるわけでもない。

根源的な苦痛について、専門職として祈りの肩代わりをする人、それが神職あるいは聖職あるいは僧侶だと私は納得している。そうすると得心がいくからである。

 

素人がそれを担うよりずっといい。なんてったって向こうは祈りのプロフェッショナルだ。祈ることにかけては他の追随を許さぬ。

自分ひとりで持て余す祈りや悼み(あるいは痛み)を抱えてしまったら寺に駆け込むのも教会で懺悔するのも同じことではなかろうか。

 

2)祈りを任されることについて

私は駆け出しの医療職である。

医療者というのは、当然ながら人の生き死にに密接に関わっていて、生きることは死へ向かうことだし死ぬこととはそこまで懸命に生きた証だということをよく知っている。

そして渦中にいて思うことは、祈りのプロフェッショナルでない我々にもまた祈りの肩代わりが委ねられているということである。

 

患者は無意識に祈りを委ねてくる。

自分の生を悔いたり、意味を問うたり、死を恐れたり、苦痛に満ちた生から逃れたいと祈る。或いはそんなに明白な言葉ではなくとも、言外に匂わせたりするのである。

 

そして祈りのプロフェッショナルでない自分には、それらの委託はとても責任が重く感じられる。

 

3)祈りは人の心を後ろ盾する

これも以前から言っていることなのだけれど、なんでもいい、信教があり信心深い人というのは(多少頑固であったり融通が利かないといった弊害があるにしろ)往々にして勁い心を持っている、と思う。

少なくとも『漠然とした根源的な不安』に対して強いのではないかと思う。

それを私たちの業界では『スピリチュアル・ペイン』といったりする。

培われた経験や所属する社会から成る倫理観・価値観から自分の進路が外れたときにそれが生ずると私は思っている。説明が難しいからだ。日本でスピリチュアルなどといってもちょっと怪しげなパワースポットみたいな連想しか出てこないのだから困ったものだ。

 

心理的な苦痛、身体的な苦痛、社会的な苦痛のどれにもあてはまらず(あるいはどれにもあてはまり)説明がつかないが、営まれている生に対しての虚無感や苦痛や罪悪感を伴えばそれはスピリチュアルペインと言ってもいいのではないだろうか。

一応日本語訳は霊的苦痛ということになっている。たましいが痛いということらしい。

 

この霊的な苦痛を軽減しうるのが祈りであり宗教であると思っている。経済的不利益や著しい社会的損害などを与えなければ、信教は個人に対してかなりよい影響をもたらすと勝手に思っている節があって、宗教についてあれこれ調べたこともある。勿論系統だったものではなく、趣味の範囲でしかないけれども。

 

4)宗教の効果

①宗教のいいところは、貴賤や賢愚を問わないことである

学問もある種宗教じみた良さがあると思っているけれど、学問にはそれそのものを尊ぶ環境があり、かつ学問の習熟を許す経済的基盤がなければ成り立たないという負の側面があるが、宗教にはそれがない。学のない人でも心は痛むし、心が痛めば祈りたくもなる。縋る先を求める。

 

②多くの宗教は言語以外の表現方法を持っている

宗教は儀式である。ある一定の動作を行ったり、何か唱えたりすることそのものが肉体へのケアであり、肉体を動かす精神へのケアでもある。

定刻になるとメッカに向かって跪くこと。ロザリオを持つこと。ゴスペルを歌うこと。経を読むこと。

そこには身体性への依存があり、また精神と身体の相関を利用した洗練されたケアが含まれているように思われる。声を出すことによる、声を聴くことによる、言葉を覚えることによる、意味を考えることによるケアがそこにはある。

それらはたとえ文字を知らなくとも、勉学が成らなくともできることであり、それをすることで社会的な繋がりや精神的な繋がりを保ち続けるという効能もある。

 

5)音楽としての宗教

自分が音楽の世界に片足を突っ込んで生きてきたせいか、聴覚への刺激には執着がある。

人は歌を歌うけれども、念仏も歌のようなものである。限りなく音程を平板化し、自由を制限した歌である。

それがどのようにいいかというと、歌のように感情の昂りがないことである。

傷つき痛んだ人間には、歌の調子に合わせて心を振幅させる余裕がない。そういう人間に対して読経や祝詞のような言葉は実に馴染みがよく、隙間を埋めて、凝った心情を融かしていくように感じる。

 

べつに、私は仏教の伝道者でもなんでもない。仏教というものを信じ切れずにいる自分を悔しくさえ思う。

ただ、宗教行事が行われている場に行くととても心が落ち着く。そこには無数の人の祈りがあり、それを一手に引き受けてきた場所があり、またそれを維持しいまだ多くの祈りを引き受け続けるプロフェッショナルたちの姿があるからだ。少なくとも私や今の医療の現場よりもずっと上手に、人の祈りを受け止める場所だからだ。

 

 

6)

 

回教でも基督教でも仏教でも神道でもなんでもいいが、自分の霊的な痛みを癒せる場所を探しておくというのは、特に日本人にはいまとても必要なことのように思える。

宗教でなくてもいい。科学に身を投ずるもよし、哲学に耽るでもよし。

ただ、自分が何か自分よりも大きな価値観に自分自身を委ねているという自覚と、それによって救われているという事実を知る必要はあるように思う。自分で自分をコントロールするということは案外困難なことであるし、困難だと思ったらどうにかなってしまう前に外部に委託するのは決して悪いことではない。そしてより望ましいのは、その外部というのが自分自身を健全に保ってくれる手法をよく心得ているということだ。その点において宗教は優れている。多くの信者を得て長い歴史を保っているものには、それだけ多くの意識的・無意識的な人間活動を支えてきた証拠でもあるからだ(勿論歴史にはそれゆえの弊害が多く刻まれているけれども)。

 

今から何か信じろとはいわない。けれど何か信じているものがあると思う。なかったらこれから居心地のよいものを探してみてもよいし、強烈に何かを信じているのであればそれをよんどころにしているという自覚を持ってみることをお勧めする。

 

なお私は宗教を信じられずにいる。しかし宗教は好きだ。宗教が好きだというその心を信じて、また今日も寺に足を運んだのだし、これからもきっと説法や読経を聴いたりするのだと思う。

或いはさまざまな祈りの場所を訪ね歩く旅をしてもよい。かつて子を亡くした母が死者をだしたことのない家を訪ね歩いたように。