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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

健やかならざる精神を抱えて生きるということ

かつての苦しみについて、それを正確に再現することは難しい。

時折ふっと往時の感覚が降ってくることがあって、今日もそれがあった。

それはもっとも苦しかった時においても自分は幸福を感じており、そして希死念慮とはいいつつも、こんなに幸福で愛されているのに死んではならぬと思っていたこと。

私はいつでも幸福に思う。どんなにつらかったときでも、つらさと幸福感は両立していた。世界は灰色だったし、未来には何もなく、いつも部屋のどこかに死神が巣食っていてこちらの様子をうかがっているようだったけれど、それでも幸福だった。自分の幸福にさえ涙するほどに琴線は張りつめていた。

 

 

 

今、何らかの疾患を抱えていると宣言すること。

かつて、何らかの疾患であったと宣言すること。

そこにどれほどの差があるのかはわからないけれど、今私は後者を宣言することにしている。疾患の慢性性について深い造詣がある人に対して以外は。それは対医療者であってもそうだ。医療に従事する者が精神疾患を抱えていることは、表向きには慰められても裏向きにはやはり忌避されるものなのである。

 

健やかでない者が医療に携わることについて、負い目がなかったわけではない。もちろん今もある。ただ、不可能かと言われると、そうでもない、と思う。権利は行使してもよいのだと思う。義務を果たす限りにおいては。それは他職においても、健常者として生きるならば要求されてしまうことであるけれども。

 

これが厄介である。

 

例えば精神障害においては、疾患の経過によっては社会保障を得ることができる。けれどそれを敢えて受けないということは、一般人として生きるということだ。そこに配慮は求められない。いや、本来は求めてもいいのだろうけれど、レッテルを恐れて受けることができない。

 

病んだことのある人には病める人の気持ちがわかる、というのは事実ではない。

その人の病みはその人自身にしかわからない。そして限りなくその心情に肉薄するために、自身の病みという経歴は必要ではない。というか、あっても邪魔なだけだ。それをそのままストレートに表現するのが憚られるので、お世辞をいってもらっているだけなんである。

病める人によるケアより、健やかなる人から提供されるケアの方が心地よいのは当然のことで、そこに厳然たる溝が存在する以上もう健やかな精神に戻ることはできない。だから、歪であっても穏やかであろうとする。その努力が、ときに、健やかなる人と違ったかたちで人を癒すだけなのだ。

 

何度でもいうけれど、必ずしも病む必要はない。病みは足手まといになるだけだ。

 

 

 

 

ときに絶望する。

 

病まない人生というのは、健やかな肉体と精神をもつということは、しあわせなことである。それだけで価値があり、守られるべきで、尊い。

病んだ人間というのはどうしても、病みに常に感情や肉体を引きずり回されているから、その分どうしても効率が悪い。なってしまったからにはそこから何か得ようと足掻くけれど、どうしても、病まなかった人生に追いつくことはないのだと思う。

あれがしたい、これもしたい、でも”病みが深まってしまう故に躊躇う”という恐怖感は、少なくとも健やかを保っていれば持ちえない感情である。

 

あれもしたい。

これもしたい。

やりたいことは山ほどあるのに、自分を叱咤激励することにまったをかけなければならないなんて、これほど惨めなことがあるか。

 

健やかな人には、その健やかさを大切にして欲しい。

病むことに魅力を感じたり、病んだ故に何らかの不思議な魅力を持つ人に惹かれすぎないで欲しいと思ってしまう。

あなたの健やかさは、あなた自身の、そして周りの財産だから。