毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

束縛され体質とは

思えばよく束縛されてきた。

恋人というのは束縛し合う権利を得ることだというけれど、しかしまぁ束縛の度を超えた束縛というものも幾らかは受けてきた。

それが普通なのか普通でないのかは、よくわからない。

 

よく部屋に軟禁されてきた。

それをおかしいと思ったことも、苦痛だと思ったことも、ない。

ただそれは当時の話で、今振り返ってみればあれは苦痛だったろうと思ったりもする。けれどその瞬間においてはむしろ軟禁は保護であり、庇護であり、擁護であったから、軟禁されることによって守られてもきたのだと思う。

 

何故こんなに軟禁を受けやすいのか。

軟禁、といっても色々あって、例えば「部屋から出ない方がいい」「ここにいて欲しい」といって部屋に留まることを勧められ、なんとなく外に出ることを抑制されるといったことや、特定の人物と会うことに対して渋面をされるといった軽いものだ。軽くなければ軟禁ではないと思っているけれども、語の意は果たして。監禁でなければ軟禁であると思っているから、よくわからない。

かのアウン・サン・スー・チー氏もあれは軟禁であったというし、軟禁とは殊の外恐ろしいものなのかも知れない。辞書を爪弾く必要があるのかも知れない。が、面倒なのでしない。この杜撰な日本語が後で私を激しく後悔させたりするのである。まあいい。

 

 

過去に出会った知人、友人を問わず、いろんな人から地に足がついていないと言われてきた。将来海外にいそうだ(パスポートさえ持っていないのに)、外国人と結婚してそう、気付いたら日本にいなさそう、結婚とかしなさそう、ふとした瞬間に消えそう、などなど。

まったくもって解せない話だし私に現実的な将来の計画性がないから言われるのかも知れない。あまり褒められた話ではない。

 

つまりその感じが過去にパートナーに不安を与えていたのかも知れないな、とは思う。

非現実的な計画が、思想が、行動が、これを束縛しておかなければならないという気持ちにさせていたのかも知れない、と。

はた迷惑な話である。

元より友人も少なく交友関係も限られているというのに、その少ない交際でさえ時に制限を受けてきたのだから、いま孤独に苦しむわけである。まあもともと積極的に交際などしないのだけれども。

 

拘束を受けるということは、慣れてしまえば精神的にも身体的にも社会的にも安心する。それは保障であるからだ。

コルセットが好きだけれども、コルセットは骨格を担保してくれる。部屋に閉じ込めたり行動を制限する代わりに、将来を約束される。そのようなものだ。

その安心感のようなものに浸ると、精神を病む。

自分が惨めで弱い存在で居続けなくてはならなくなる。

相手より下手で居続けなければならなくなる。上手に立つとその担保が消えてしまうから。

 

自分語りをするのが嫌で、普遍性しか認めたくなくて、あまり明らかに何かを言うことは避けてきたけれど、やはりそういう体質のようなものはある気がする。

 

再三言うとおり、褒められたものではない。