毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

八重の桜 北村聡(バンドネオン)中島ノブユキ(ピアノ)コンサート

こんばんは。

ちょくちょく色んなコンサートに行くのですが、今回は非常に素敵だったので感想をぼつぼつと。

 

 八重の桜はただのきっかけというか、特にそれを目当てで行ったわけではありませんでしたが、ピアノの方のバンドネオンの使い方というか相性というか非常に良かったのです。

 ピアノを弾かれる方の中にはアレンジャーのお仕事もなさっている方がたくさんおられます。今回の方は作曲活動もなさっている方で、「ラメント」という曲が非常に耳に残りました。いや残らなかったというべきか。考えさせられたのです、色々と。

 

 本来芸術というものがどんなものなのか、学問的に深く掘り下げたことがありませんので「これ!」と断言はできません。けれど、本人がどういう思いで作ったものであれ、他人に特定の情景を想起させたり感情を呼び起こさせたりというのは最早作曲者本人のあずかり知らぬところであるわけです。

 「感動」というのは、聞く人なくして有り得ない現象なのですよね。動かすエネルギーの対象がなければエネルギーそのものは霧散するわけですから。

 ラメントを聴いて非常に悲しくなってしまい、あーこれは実に悲しいなと思いながら聴いていたわけなんですが、しかしその悲しさは作曲者が意図したものではないわけです。勿論隣で聴いている人の心にも、まったく違うものがあるわけで、それらは後から感想を訊いてみたところで共有できるものとは限らないわけです。たとえ言葉を尽くしたとしても、それぞれバックグラウンドがある以上、曲がったかたちで伝わることが当たり前です。

 

 で、その曲がって自分の心情が伝わることが苦しいのですが、しかし曲がって伝わるのが当たり前であればこそ持ち寄れるものもあるのですよね。それが所謂「感動」というものの正体なのではないかと思ったりもします。

 私は作品を作る人ではありませんから、感動を一方的に与えることはできませんが、例えば誰かと共有したい感動があったとき(あるいは誰かから持ち寄られたとき)、曲解するなりに理解することができます。曲解を前提に、真の理解をできないことを前提にするならば、誰かの感動(いいものであれ悪いものであれ)を受け取ることが可能です。

 こんなことは日常的にやり取りのなかで為されているのでしょうけれど、「悲しい」の主体はいつも作品の中にではなく作品を見る人の心の中にあるのだなと思うわけです。

 

 そしてちょっと意地悪な言い方をすれば、誰かの愚痴を聞いているとき「わかるよ」というのは自分への慰めではないかなとも思います。「わかる」のは自分の身に覚えがあると思うからで、それは「状況的に」自分も同じ状態を経験したことがあるだけで、その人の感じ方であるとか心の有り様まで読み取ることは、実際には限りなく不可能に近い。

 情動の主体がいつでも己である以上、「わたしのときはこうしたから~」というのははっきりいって無意味に等しいのです。そういう人が愚痴の相手に選ばれないのは当たり前なんですね。

 

 そしてもうひとつ、我々は言葉に惑わされやすいものです。

 たとえば「風立ちぬ」の映画であった煙草論争のように、目の前にモチーフとして出された現象の解読に終始してしまい、それを発信した側の意図が裏にあるということをちょいと忘れてしまうことがあるように思います。そしてそれは言葉があればこそのようにも思えるのです。

 何故なら音や絵など解釈が個人に最初から委ねられる(ある程度の文化的影響を受けるにせよ)ものならば最初に情動ありきになりますけれど、文章や映画のように中に言語を挟んでしまうと、言語を理解するところから始まりますから、「感覚」に加えて「語の理解」が必要です。そして感覚+文化的背景、語の理解+文化的背景という個人のもつバックグラウンドを加えた際に、語の理解が感覚的理解にすり替わってしまうこともあるように思えるのです。

 いつでも発信者と受信者がいるのですが、発信者が作者から作品の登場人物に移ってしまうと、直接の表現を得ることができずもどかしいときもあります。そして言語を媒体にする職をもつ人(広義では全ての人がこれにあたる気もしますが)は、いつもその曲解に晒されていることを自負しながら仕事に臨まないといけないんだなぁ、なんて。

 大変ですよね、いろいろ。

 と、演奏を見ていて考えたりしたので曲の中身はあんまり頭になかったりするんです。

 でも色々考える余地をくれる曲ほど、いい曲です。私にとっては、ですけど。

 

 今日も楽しませていただきました。