毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

mixiから

人恋しいからそうなるのかと思いきや、やっぱりそうでもない。 
少なくとも過去を掘り返したらまったくそんなことはなかった。 
霊的な痛みも広義の信仰(あるいは信念)もほとんどの場合は共有できない。共有できないけど持ち寄ってくれる人はたくさんいるけど、私自身は、持っていくことがどうしてもできない。 
理解され得ない場に自分の根幹部分を曝すことができないだけかも知れませんけどね。 
それを適当にばーっと曝してはじめて、「腹を割って話す」ことができるのかも知れません。でも、曝すくらいなら腹なんて割れなくてもいいやって思っちゃう。 

どっちかというと、普段の発言や行動の様子から、その原理を推測して、「あなたはこんな人?」と探りをお互い入れてみて、相容れそうであれば関係を深くしていく典型的日本人タイプなんです。 

でも、最近案外この「言動の裏」っていうのは読みあう機会が少なくなってきて、石橋を叩きすぎて渡る前に壊れるんですよ。 
そんな簡単に人間同士がわかりあえるはずがない。許しあえるはずもない。裏切られるのも裏切るのも怖いから、どこまでもグレーにしておきたい。 
そういう怖がりの人間って、案外少ないのかしら。 

「繊細チンピラ」というキーワードが一時期はやりましたが、「傷ついた!」っていうのだけは早いですよね。 
発言者がバッシングに遭って傷つくこととかは考えずに。 

ま、とりあえず人間とそんなに関わらなくていいやと再確認できただけでも御の字です。