毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

コスプレ考

 ネットをしているとコスプレまとめとか見かけることが多いのですが、とある伝からコスプレイヤーたちの内情を知ることもままあります。

 ちなみに私自身はコスプレをしませんし、批評もしません。

 そんな自分が自分の領域からコスプレという一大ジャンルを見て思うことを書きます。

 

▼コスプレにおける世界観とレイヤーの関係

 最近のコスプレ写真を見ていると、衣装や小道具だけでなくロケーションやセッティングといった世界観にまでこだわっているものが多くあるように思います。

 最近の、といいましたが昔のコスプレに詳しいわけではありませんのでなんとも言えません。昔からそうだったのかも知れない。

 

 個人的な友人に写真を撮る人が多いので、こういった非コスプレの被写体とコスプレの被写体の違いは幾つか挙げられます。

 

 ①コスプレには優先すべき「世界観」があり、人物の人間性に先立って世界観が優先される

 ②主体・客体で勘定すると、非コスプレは2つ(被写体の人間性・撮影者の人間性)、コスプレは4つ(被写体の人間性・撮影者の人間性・被写体の世界観に対する認識・撮影者の世界観に対する認識)

 

 ぱぱっと出てくるのはこれくらいでした。

 つまり非コスプレであれば「演じたい自分」を演出するだけで良かったものが、コスプレで何処かから世界観を借りてくる場合は「撮影者・被写体それぞれがその世界観をどのように受け止めどのように表現したいか」という要素が追加されるのです。

 勿論、本人たちの地の部分も消せるわけではなく、人間としての要素も滲み出ます。

 非コスプレの写真である場合はその要素を切り取ることで作品を作ることができますが、コスプレの場合はわざと自分の人間性をコスプレしたい世界観に食わせる必要があります。

 

 私がいつもコスプレ写真に違和感を抱くのはこの辺りで、世界観に人間性を食わしきれていない、または押し出すべき人間性が世界観に勝てないという点です。

 人間の写真である以上、本人の演技力というものが必要なのですが、演技がコテコテすぎて逆に目立つ。二次元のテーマを三次元でやれば違和感があるのは当たり前なんですよね。

 なのである程度本人の人間性が前面に出ても良いのではないかと思うのですが、その人自身の魅力を写真に納めるというのはこれまた撮影者の技量が問われる部分でしょう。

 

 なんでこんなことを考えるかというと、自分の領域である「演奏者⇔楽譜⇔作曲家」+指揮者の解釈、という部分で同じ問題にぶち当たっていたことがあるからです。

 コスプレに置き換えると「被写体⇔原作⇔作者」+撮影者の解釈ということになるのでしょうか。

 答えの出る話題ではないので、これはここで置いておきます。

 

▼コスプレの作品づくりにおける批評

 世界でもコスプレがマイナーながらも楽しまれるようになった現在、それが人目に触れる機会も多くなりました。コスプレに縁の無い私がそうなのですから、そういうことなのでしょう。

 コスプレといってもピンからキリまであって、それこそ世界観ごと作り上げることこそ至高という人もあれば、同じ服が着られたら満足という人もあります。そしてそのどちらも等しくコスプレと呼ばれています。

 

 で、コスプレの界隈をちょっと覗いてみるとかなりシビアというか辛辣な批評を見ることもあって、その批評の発端はどこか?と考えると、当たり前なんですが「人目に触れる」ことから始まります。

 より人目に触れる環境であればあるほど、様々な意見・思想を持つ個人の評価に晒されることになるのですから、より完璧に近いものが持て囃されより完璧から遠いものがこき下ろされるのです。

 

 しかし有名レイヤーの写真を見ていると、意外にも「本人とわかること」が前面に出ているような気がします。あ、またあの人がコスプレしてる、と思うことがままあります。

 恐らくそれは個人の魅力・特徴がコスプレの世界観を凌駕して被写体であることを優先させるからなのでしょう。完璧にコスプレしてしまった場合、作品ごとに本人かどうかの判別ができなくなり、結局個人としては埋没する運命にあるのかも知れません。

 

 いやはやコスプレ、奥が深い。