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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

SNS普及の弊害:mixiから

SNSを用いることで、希薄な関係を維持できるようになったことは強みだと思う 
以前ならばその希薄さは最早無かったものとして扱われていたけれど 
今では気軽にそれを維持することが可能になりました 
勿論維持することによる弊害もあるけれどね 
関わる気がなくても関わることになるとか まぁ それはそれぞれ処理したらいいと思います 

SNSがあるからこそわざと人間関係を薄めて楽にしているとも言える 
中学くらいからはもうずっとそうです 
私はまだ全世代の中では若いから、ネットの成長とともに育ってきた 
だからこそそういう選択もできますが 
果たしてそうでなかった時期、関係はとても窮屈だったのだろうかと思いを馳せます 
そうだったのかも知れないし案外そうでもなかったのかも知れない 
ネットでお互いを監視できる社会でなかったらそれはそれで気楽なものでしょう 
携帯をバスに忘れてしまったときのあの気楽さに似ている 

結局どれも 行き過ぎはよくないのかも知れませんね 



最近思ったことは、ネットにどれくらい現実を反映させるか・現実にどれくらいネットを持ち込むか ということについて。 
私自身はわりといつもこの線引きが曖昧で、以前は高校の先輩後輩なんかもmixiで友人だったりしたのですが、不安定になると全部絶ったりと色々失礼なことを繰り返していました 
今ではわりと安定しています 現実で知り合った人はひとりしかいないし、mixiにおいて恐らくそこが変わることはないでしょう 
それはFacebook(使ってないけど)やらSkype(使ってないけど)やらLine(使ってないけど)が役割を代替してくれているからです 
そしてそれがごちゃまぜになったものとしてTwitterがいます 

閑話休題。 
ネットに現実をどれくらい反映させるかはまぁ、人それぞれで良いとして 
現実にどれくらいネットを持ち込むか。 
この問題に先日行き当たりまして(相談を持ちかけられただけですが) 
色々考えたんですよね。 

趣味の相手ならば絶対気が合うとか、そんなことは決してないのですよ。 
むしろネットで相手の表情も見えない分、同じ趣味を持っている分、細やかな配慮をもって接する必要があるのだなと、いまさら。 
ネットだから簡単に切れるのもまぁそうなんです。匿名性だってあります。 
逃げようと思えばいつでも逃げられる。 
だからこそ、一緒に居られるような気遣いが活きるんでしょうね。 

そしてネットの人間関係を現実世界に持ち込む場合、その配慮は限界まで為される必要があります 
文章で気が合うからといって会話のタイミングがかみ合うとは限らないんです 
ネット上で考えに考えて適切な文章を選んでいる場合、咄嗟に出てくる言動とはむしろ逆であることさえ考えられます 
つまりネット上で醸成された雰囲気・空気感は必ずしも現実で再現されるわけではないということなのです 
だからでしょうか、ニコ生みたいなツールが苦手なんです 
ああ、配慮が為されていないな、と残念に思う瞬間がとても多い。 
反面教師にはなりますけれど。 

出会い系みたいな、目的がはっきりしているものはかえって清清しいです 
目的がはっきりせず、個人の判断と倫理観によって用途が選択されるものほどたちの悪いものもない。