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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

窓際のトットちゃん:mixiから

最初にこの題名を聞いたのは実はもう10年以上も前のことでした。 
世代が違うためか、黒柳さんの偉業が偉業だと気付くには時間がかかりましたので、「窓ぎわのトットちゃん」の著者が彼女であると知るまでにブランクがあったのです。 

あれは小学校3年だったか4年だったかの文集で、私の親友(今連絡取れないんですが国外を転々としていてあの子生きているんだろうかといつも心配、けど生きてるみたいでやっぱり安心)が先生からの評で「窓ぎわのトットちゃんでしたね」と書かれていたのですよ。 
ちなみに自分の評は忘れましたね、そりゃもうすっかり。 

今も恐らく破られていない国内のベストセラーだと思うのですが(もしかしたら破られたのかしら)、教育の何たるかについて考えさせられる場面が多くありました。 

成人は自分で学ぶ、自分で学ぶけれども必要と認識できなければ学び始めない。 
必要だと認識するためにはどうしたらいいのだろうかなぁ、と思うとその基礎は子ども時代にあるわけですが、子どもの教育は成人によって行われるのですよね。当たり前ですけれど。 
じゃあ教育を施す成人は自学自習の必要性とその内容の吟味ができる人でなければならない。 
果たして、それが可能な環境にある成人はどれくらい居るだろうかと思うのです。 

教育者になるために必要な素質についての疑問に続いて、子ども自身の疑問。 
トモエ学園のような教育を受けられる子ども、現代には一体何人居るのでしょう。そしてそれは自分で選び取るものなのか、ある程度親(またはそれに準ずる人)が選ぶものなのか。 

小学生も高学年になれば、自分がこれからどうしていきたいか選ぶ能力はあると思います。 
しかし能力があったところでそれを発揮する場はあるかな、と考えるとクエスチョン。 
子どもは自分からプレゼンテーションしてはくれないのですよね、自分の能力とかを。 
それを如何に見つけ如何に補い如何に伸ばすかは、やはり教育者というか養育者の腕にかかっている。 
そしてその存在により早く気付けた者が、教育への出資者(まぁ大概養育者なんですけれども)へのプレゼンテーションを行い自分の道を選ぶことができる。 

いやぁ清清しいほどに不平等ですよね。 
いい教育を受けた親がいい教育を子どもに施すのは当たり前のことなんですが、ここまではっきりしているともう本当に清清しい。 
以前Twitterで、馬鹿は馬鹿から生まれるのだから上層と下層ではっきり区別されていてお互いに交わることは殆どできない、というような内容のはてなブログの記事を見つけまして。 
最近のTwitter炎上騒動を鑑みるとそれも否定できず、もやもやした気持ちを抱えることになりました。
Twitterが台頭する以前、それは携帯向け個人サイトで行われていたことなのです。 
場所が変わっただけで内容は何も変わってはいません。 
考えて行動することをしてこなかった親からは、子は考えて行動することを学べない。いつかその必要性に自分自身で気付くしかない。 

うちはわがままを許してくれる家で、そういうこともきっと多分に可能だったのでしょうけれど、結局自分のプレゼンテーション能力不足故に紆余曲折する羽目になりました。 
勿論それを無駄にする気はさらさらないのですが、自分の能力不足というのはいつでもガツンときます。どんな年齢でも。気付くのは早ければ早いほど良い。 

プレゼンテーションというよりはネゴシエーションかも知れません。 
出資者への交渉。 
これが下手くそで大体躓いてきて、それを半分親のせいにしてみたりもしたのですが(事実そうなのかも知れませんが)、だったら残りの半分を何とかしろよっていう話です。 

世の中は不平等に出来ていますが、それが不適切なことだとは思わない。