つぶやきでぐわっと思い出したことがあります
人にものを教えるのが嫌だということ
自分というバイアスを通した知識を人に伝えることの不正確さを最早憎んですらいます
そしてそんな知識を求められることがたまらなく嫌だということ
意見・見解を求められるのであれば、そして相手もそれを出してくれるのであれば
それは対等の関係として互いの利益になります
しかし自身のための理解を他人に説明せよと求められる場合、大抵相手は反応をくれないのです 意見もくれないのです
それは無償の労働なのですよ。
全体のレベルを上げることが共通の利益になるからという理由では足りないくらい教える側は消耗するのです
10を学んで3を教え、そのうちの1がやっと本人のものになるかならないかというレベル
私がまた何かから学んでいると考えると、元のものは100なのですよ
100を最低限必要な1に凝縮する作業は中継機構に委ねられます
それに対してなにか利益があるか?という話です。
利益利益ってまるで資本主義まっしぐらみたいですが私はわりと社会主義的な人間です
少なくともかじって色々考えてみた限りはそうでした 残念ながら
だから資本主義的に考えた場合どうなるのか
利益というより、損の減少です
学ぶことにより得た益を教えるという労力で消耗する
その消耗分を補って余りある「なにか」がなければ、学ぶ労力も相まって最終はマイナス勘定です。
しかもこの行為には相互関係がついて回るので、1度やると2度目・3度目、対象者は1人から2人目3人目へと加速度的に増加します。
赤字が放物線を描いて増加し、負担が二乗。
まったくもってしんどいです。しんどかったです。
じゃあ知識を共有しないのがいいのか、共益を求めないほうがいいのかといえばそんなことはない。あったほうがいい。
私が教えを請わないのがまずいのか。
人から学ぶことはたくさんあるけれどそれは間接的なもの。
直接的に教えを請えばこの損は解消されるのでしょうか。
答え合わせは冬以降。
いやもうはじまっているのですが。
どこで読んだのか忘れましたが教育には金銭が支払われるべきではないという論を目にしたことがありまして
わかるような気がするんですけどわからない。
金銭に対等な教育というのが限定されるからなのかも知れません。
金持ちはいい教育を受け豊かな家庭を築くが、貧乏人は限定されたままでしかいられないというあの構図。
教育者には施す教育水準を限定せず、自身のもてる最高の教育を施してもらう必要があるのかもしれませんね。医療者もそうですが。
もし「給料分はたらく」っていうことをされたら、教育も医療も崩壊しますね。
だって本人の善意に甘えている。
「そうすべきだから」という方針で個人的に為されるカント的な善行に資本主義がたかっている。
でも教育者医療者にそれぞれ個人の能力が存在する以上、やはり金銭でしか格差化はできないんですよね。
つまり、「最高の労働をする代わりに支払える最高の給与を保障する」というのは有り得ない。
物差しがないと困るんだけど、物差しがあったらあったで困る。
共産主義というのは人間が「サボらないもの=まじめな生き物」としてしか機能しないのは確かにその通りかも知れません。やっぱり私は共産主義的人間なのかも知れません。
給料分はたらくって難しいですよね。難しいんです。
求められた最低限のことを実現する最小限の労力を拠出するのが今後の目標。