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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

自己の範囲の拡張

これもmixi日記から。

 

自分の中に何人もの自分が居て悩む人がいる 
他人の中に何人もの自分が居て悩む人がいる 
私は後者なのだけれど、本質的にはどちらも同じこと。 

同一化過剰という言葉を用いて後者を説明することができる。 
昔書いたことがあるような気がするけれど、また思い出してしまったのでまた書くしかない。 
今書くのと前書いたのとでは何か違うかも知れないから。同じかも知れないけれど。 

曰く。同一化過剰というのは同一化出現の位相の失敗である。 
初期の出会いの位相、同一化出現の位相、共感の位相、同感の位相を経てラポール(信頼関係)は形成されるというけれど、同一化出現の位相で必ず失敗が起こる。 
その内容とは、本来他者と自己の違いを明確に把握し思路の異なることをはっきりお互いが自覚することなのだけれども、むしろ他者と自己の同一の部分に着目することに問題があるのだと思う。 

あいつもあいつもあいつも俺だ! 

という驚きですね。 
別に俺っ子になったわけではないのですが。 

そうして過剰に憎む・過剰に同調する(それは本来の共感ではない)・或いは排斥するという事象が起こるのです。 
恐らく信頼関係を築こうとしていないことにも問題がある。 
つまり人間関係に興味がないんです。 
その先の人間に興味はあるけれど、「わたし」と「あなた」を結ぶ繋がりは特に欲していない。 
相互関係になると面倒だからです。 



▼ 

そういえば中学生の頃はなんだか全ての現象に愛をもって接さなければならないと思って、それは近年までずっと尾を引いて私の脚を引っ張ってくれました。 
「嫌い」と「愛がない」のは今でも違います。 
人間のうち99%は嫌いだけれど、多分100%愛せる。嫌いであることと愛せないことは違う。 
嫌いかどうかはそれこそ相互関係の中で生まれる明確な感情であって、愛のようなぼんやりしたものとは違う。 
愛にも限界がある。 
限界を超えるとそこからはある意味「無関心」の領域になるので、好きも嫌いも残っていないし。 
それを果たして愛と呼ぶかどうかは別として、限界までは精一杯愛せるのだからそれは愛なのかも知れない。 



▼ 

皮膚感覚においても視覚においても、それが自分ひとつで完結しないときに、身体の範囲をわざと拡張しているときがあるように感じます。 
そうすることで他人や周囲の物体を自分の中に取り込んで処理する。 
余裕のない時にはできないのだけど余裕のある時にはやる。でも面倒くさいです。全部。 

面倒くさい。