毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

コミュニケーション障害

mixi日記から。

 

 

私も大概コミュ障なんですけど 
コミュ障だっていう自覚はわりと役に立つと思うんです。 
自称コミュ障の人で失礼な人ってあまり見たことがないから。 
逆にそこを自ら問題提起出来ていない人は、相手から度々失礼とか馴れ馴れしいとか陰口叩かれていたり。 
主観なんで、別に数的にも質的にも調査に基づいたりはしていませんけれども。 

コミュニケーションにはノイズ(障害)が必ずかかります。 
それは文化的背景であったり言語であったり環境音であったり、発声の問題であったり。 
でもどこがどう障害しているかわかっていれば、少なくともそれが為にコミュニケーションが上手く行かぬのだとわかります。そこに注意ができます。 
注意もしないのとでは質が違います。 
コミュ障の人とコミュ障である私が話すときは得てしてとても気遣いあったような会話になってしまうのですが、その気遣い、なくして良いものかは考え物です。 
親しき仲にも礼儀があるのなら構いませんが。 

敬う気持ちがあるから敬語になるのではなくて、敬語になるから敬う気持ちになるのだとどこかで見て以来わりとそれを実感する機会が多くて、敬語は本当にいい文化だと思います。 
敬語を扱うように人を扱うべきなんでしょうね、本当は。 

ちなみにコミュニケーションの88%が外見・動作などなど非言語的コミュニケーションによるものだというものを2年前くらいに叩き込まれたわけですが、つまり言語的コミュニケーションに頼れる文章の世界ではノイズが限りなく少ない、あるいはノイズの種類が限局されているのですよね。 
コミュ障にとっては有利です。 
表情も見えない、文字を書くのにかかる時間もあまりわからない、話すテンポもわからない、風貌も見えなければ歩き方もわからないし出会った瞬間にハグしてくる人なのか会釈をする人なのかもわからない。 

でも、文章の中からもその人の人と形が見えてくるんですよね。不思議と。 
SNSが発達したおかげでもう数秒単位の投稿になってくるからかも知れません。 
文通であれば、もしかすると字体から人と形を読んだのかも知れませんが。 
もしくは性格がわからなくても、「こういう人ではないな」というのが見えたり。 

話が逸れました。 
医学的に治せるコミュ障は本気で治療したら良いと思うんですが、そうでない社会的コミュ障が必ず地続きにいます。 
それを果たして治す必要があるのかなと思うし、なんならコミュ障を武器にできないかなと。 
人間は仲間はずれを出す生き物なので、コミュ障でないと思っている人たちがコミュ障をそこから脱却させるわけがないんですよ。自分たちの地位が危ぶまれるから。 
だったらもうそれを獲物に戦うしかないんでしょう? 
いいじゃないですか別にコミュ障でも。