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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

処女論(過去日記から)

▼処女性と少女性

世の中の男性の中には処女好きというか処女至上主義みたいな人がいます
男性と一度でもお付き合いをしたことがあるというか、そういう女はもうビッチだなんだと罵られるわけですね
まぁそれは別にどうだっていいんです

処女性というのは少女性と結びついているのかどうか
彼らが求めているのは少女であって、本来処女ではないのではないか。
だって30歳でも処女がいいんですか?
40歳でも?
彼らが女性に求めているものは、母性か少女性のどちらかくっきりと分かれたものであると思ったり、します。



思うに処女性とは、実際に生活している女性側からとってもそれなりに重要視される要素である気がします。
童貞と似たようなもので、処女であるということが人としてワンランク下であると自ら卑下してしまうとか、経験が足りないと思う傾向があります。私の周りでは。
恥ずかしいことといえば、そのようです。

勿論そうでない人もいるのですが、私は彼女らの処女性について想う。
「処女でなくなることに何か大きな意味がある」
と考えている、という共通点があって。
それは別に大多数のサンプルから得た結果でもなんでもなく、ただ、私が聞かされる話から推測しているだけなのですが。

私からすればそれこそが処女性、なのです。



ではネット界隈でよく見かける処女至上主義における「処女」と「少女」はどこにいるのか。
実生活上の女性において、月並みながらそれは初潮を迎えることの中にあるのですよね。
「処女」に、純真な、無垢な、という部分を求めるなら、それはむしろ初潮を迎える前だったり、迎えて間も無くの情緒不安定な時期にあるのだと。

考えてもみて下さい。
月に一度、何日にも渡って、怪我や病気でもないのに自分の体が血を流し痛むわけです。
それが病気でないと言われ、正しいと言われ、古い家なら「お祝い」をされるわけです。
今まで血を見たら泣いていたような子も、生傷だらけで生きてきた子も、等しくそいつを迎えなければならない。
強制的に、生きている限り、毎月、自分が女であることを自覚させられる。
それなりに誰もが時間をかけて受容していくわけですが、恐ろしいことです。
三浦しをんの「秘密の花園」にそんなシーンが出てくるんですよね。


それを受け入れてしまうと、もう少女のもつ特有の儚さというか、不安定さというか、その部分のオリジナリティは失われてしまうのです。

こなれた私たちが持っているのはただの「少女役」。
それを「○○女子」だの「ガーリー」だのと言って、飾っているだけなのです。

そいつは強かなただの「女」。
貴方たちが処女だなんだと騒いで崇めているのも、女。



いつになったらその矛盾に気づくのでしょうか。
と、女の私は思うわけです。