毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破 5周目(31-40)

1.ヴォルテールを学ぶ人のために(植田祐次

ヴォルテールを学ぶ人のために

ヴォルテールを学ぶ人のために

 

ヴォルテールの文章は何やら美しいらしいということを知った。当時の士族の子は何かとあればヴォルテールを読めと言われたそうです。ちなみに他の、哲学者についての「学ぶ人のために」シリーズと違って本人についての物語形式になっていて、最後の章は名言集みたいになっています。

己が畑を耕せという言葉を肝に銘じるなど。

しかし「最善は善の敵であってはならない」が一体どこからの引用なのか、この本には書かれていませんでした(どこからなのか。

 

 

2.Any:建築と哲学をめぐるセッション(磯崎新

Any:建築と哲学をめぐるセッション―1991~2008

Any:建築と哲学をめぐるセッション―1991~2008

 

対談編なんですがなんというかデリダ招かれてるしなんだこれは的な本でした。しかし建築の観念的なところは全然好きじゃないぞこれは。

各場所で開かれたカンファレンスの収録集なのですが、デリダ脱構築の概念がやはり誤解されていてちょっと悔しかったです(ご本人もセッションの中でそう仰っていた)。ル・コルビュジェ後の建築についてやレム・コールハースの企てなどなど各建造物が土地にもたらした作用についてなんですが、対談形式なのもあってちょっと本人たちが何に納得しているのかわからない点が多々あります。

 

3.文化・階級・卓越化(トニー・ベネット

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

  • 作者: トニーベネット,マイクサヴィジ,エリザベスシルヴァ,アランワード,モデストガヨ=カル,Tony Bennett,Mike Savage,Elizabeth Silva,Alan Warde,Modesto Gayo‐Cal,磯直樹,香川めい,森田次朗,知念渉,相澤真一
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2017/10/26
  • メディア: 単行本
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1960年代フランスにてブルデューの「ディスタンクシオン」においてなされたような調査を、2000年代イギリスにおいて再度実施されたもの。手法は似通っていますが、特にジェンダーエスニシティについてさらにつっこんだ調査がなされていて、音楽などの嗜好もその文化圏まで調べられています。

日本版「ディスタンクシオン」は「差異と欲望」だと自分は思っているのだけど、ことエスニシティについては日本は(ほぼ単一民族で世代が構成されるゆえに)調査の土壌として不十分かもしれないなあと思うなどしました。ディスタンクシオンはたしかに良書ですが時代を読み解くものとしては現代より少し遠いので、現代の格差社会(多分な経済格差を含む)の調査方法としては見方が少し古い部分もあり、「文化・階級・卓越化」がこれに代わってくれるのではないかと思います。よいです。

 

4.ドゥルーズー解けない問いを生きる(檜垣立哉

ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス)
 

この「哲学のエッセンス」シリーズが気に入ったので、ライプニッツに続いて借りてきました。ポストモダニズムの説明として言葉ばかりが拝借されがちなドゥルーズ(多くの場合は共著者であるフェリックス・ガタリと共に語られる)の、哲学の基盤となるものについて100ページ程度にまとめられています。本書の解説においてはドゥルーズの本懐であるところのスピノザベルクソンドゥルーズの流れを強く意識させて書かれています(嬉しい限りです)。あとドゥルーズのテクストを難しく感じさせる理由がカントにあるというところをようやく理解しました。カントは叩き台。

 

5.階級社会 現代日本の格差を問う(橋本健二

階級社会 (講談社選書メチエ)

階級社会 (講談社選書メチエ)

 

 こちらは前出「文化・階級・卓越化」と異なりさっと短くまとまった本です。「日本のメリトクラシー」とかもいい本だと思うのですが、どちらかといえば格差の原理にスポットライトをあてた感じです。社会科学というより理論よりといえばそうかも。この本、同じ著者による新版があるらしく、そちらを読んだ方が良いのかもしれません。

 

6.都市と野生の思考(山極寿一 鷲田清一

学長(片方は総長)同士なのでどうしても大学の話になるのかと思いきや、大体のことが京都というまちのことを巡る話なので面白いです。人類学と哲学、とくに山極教授と鷲田教授ご自身の専門の領域はある意味(意味的な側面において)近いこともあり、繰り広げられる対話は面白いです。

 

7.脳の中の天使(V.S.ラマチャンドラン)

脳のなかの天使

脳のなかの天使

 

「センス」ってなにかなあと10代のころから考えてきて、あれも違うこれも違うと感じていたけどラマチャンドラン「脳の中の天使」はちょっとした答えになった。いや、それまでにもよそからたくさんの小さな答えを授けられてはいたのだろうけど。

著者のラマチャンドラン氏は神経内科の医師であり、また研究者でもある。本書の冒頭で提示される、「研究というものに実験装置が加わると、その装置をいかにして使うかといったことに固執してしまい原始的な反射を用いたり手ずからおこなう実験が軽視されたり扱われなくなってしまう」という危惧は結構身につまされるものがありました。いえ、特になにか具体例があるわけではないのですが。

神経美学の話になるとこれが結構面白くて、ラマチャンドラン氏のお名前にもあるようにルーツであるところのインドの仏像のうつくしさの要素についての話がでてきます。これが後半に入ったくらいなので、前半はほとんど神経科学の話です。具象と抽象の谷についてや、デフォルメのありかたについても書かれています。美術系の本でなくてこういった認知科学から捉えられた美学(芸術・音楽の知覚について)の論は多くないので、読んでいて嬉しいです。

 

8.刑務所の読書クラブ:教授が囚人たちと10の古典文学を読んだら(ミキータ・ブロットマン)

刑務所の読書クラブ:教授が囚人たちと10の古典文学を読んだら

刑務所の読書クラブ:教授が囚人たちと10の古典文学を読んだら

 

良い本でした、面白く読みました。

いささか著者が感情的(情緒的)すぎますが、それを隠さないこともまた良い。特に、生徒が別のクラスでシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を演じていると知った時の屈辱に一瞬煮えるシーンとか、臨場的です。教える者の苦痛というものがよく伝わってきます。「私が差し出せるのは文学だけだ。」でこの本は締めくくられています。その経過は、お読みいただければもちろんすぐにでもわかるのですが、概ね読む前から予想がつく人もいることでしょう。教育は啓蒙ではないし、まして読書会というとのは教育ですらない。本編の中でチャールズがいったように、「いっとき現実を忘れるための」場です。これと併せてスディール・ヴェンカテッシュの「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」を読んでいただくと、塀の中と塀の外の世界や、逆説的に「自由から守られる」ことについて考えることができますね。

 

9.不確かな医学(シッダールタ・ムカジー)

不確かな医学 (TEDブックス)

不確かな医学 (TEDブックス)

 

TEDの焼き直しです。シッダールタ・ムカジーは「病の皇帝」の著者なので気になって手に取りました、大体ベイズの話です。知っていたら読まなくていいとは思います

 

10.何のために「学ぶ」のか:〈中学生からの大学講義〉1 (外山滋比古

鷲田清一氏が著者一覧に載っていたので読みました。中学生向けなので(なので、というより単純に内容が浅い)他に読むべきものはそんなにないのですが、今福氏の「群島-世界論」はいつか読みたいなあと思っていたのでちょっと惹かれたのと、小林氏はさすがの「オススメ本」を出してきていてよかったです ゲド戦記なんですけれどもね。

100冊読破 5周目(21-30)

1.2.科学的発見の論理(カール・ポパー

科学的発見の論理 上

科学的発見の論理 上

 
科学的発見の論理 下

科学的発見の論理 下

 

科学は確実な、あるいは十分に確定された言明の体系ではない。究極の状態に向って絶えず前進していく体系でもない。われわれの科学は真知(エピステーメ)ではない。それは、真理に、あるいは確率といったそれの代替物にさえ、到達したとは決して主張することができない。

科学の前進は、時とともにますます多くの知覚的経験が累積するという事実によるものではない。また、われわれが諸感覚を絶えずよりよく利用しているという事実によるものでもない。いかにわれわれが精をだして集め整理したとしても生のままの感覚経験から科学を蒸留することはできない。大胆な着想、正当化されざる予期、および思弁的思考こそが、自然を解明するためのわれわれの唯一の道具なのである。そして、〔科学のゲームの〕賞を獲得させるために、われわれはそれらを危険にさらさなければならない。自分たちの着想を反駁の危険にさらそうとしない人たちは、科学のゲームには参加しないのである。ーカール・ポパー「科学的発見の論理」より10章験証 85.科学の行路

ポパーによる経験主義から反証可能性についての転換。記号論理学やりたいのでちょっと参考になるかなと思って読んでみたのですがまあ難しいこと(ボルツマンの熱力学とか高校にちらっと名前聴いて以来では)、物理と数学と情報科学の大まかな流れをしっていないと大変厳しいです。読んでいたら付箋がはってあって(図書館のものなので)、「わからない、しね」と書いてあり気持ちがよく伝わってきましたね...

 

3.韓非子(韓非)

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)

 

マキャヴェリズムとはかくあらんというばかりの君主論ですが、そもそも古代中国全部君主制やしなあとか思うんですよね 西洋との違いは法治国家になるのが比較的遅い点かと思います(法というより儒の教えの方が普及している)。韓非子が評価されるのは戦乱の世に法治の重要性を説いたことなんですね。世界史の授業でだいたい出てくるんですけど、信賞必罰と内憂を制することについて事例を引っ張ってくるというのが多い中、ひとつ、「臣下が注進するにどんな言い方をしてもよく思われないから言いづらい」みたいなのがあって、なんやこれ現代か…と思って笑いましたね

難言

臣非、言ふを難(はばか)るに非ざるなり。
言ふを難る所以の者、言、順比滑沢(じゅんひかつたく)、洋洋纚纚(ようようさいさい)然(た)れば、則ち華にして実ならずと以為(おも)はらる。敦祗恭厚(とんしきょうこう)、鯁固慎完(こうこしんかん)なれば、則ち拙にして倫ならずと以為はらる。多言繁称、類を連ね物を比ぶれば、則ち虚にして用無しと以為はらる。総微説約、径省にして飾らずんば、則ち劌(けい)にして弁ならずと以為はらる。意を激(もと)めて親近、人情を探知すれば、則ち譛(こ)へて譲らずと以為はらる。閎大広博、妙遠にして測られずんば、則ち夸(こ)にして用無しと以為はらる。纖計小談、以て数を言へば、則ち陋(ろう)と以為はらる。言ひて世に近く、辞、悖逆せずんば、則ち生を貪りて上に諛ふと以為はらる。言ひて俗に遠く、人間(じんかん)に詭譟(きそう)すれば、則ち誕と以為はらる。捷敏弁給、文采に繁ければ、則ち史と以為はらる。文学を殊釈(しゅせき)し、質信を以て言へば、則ち鄙(ひ)と以為はらる。時に詩書を称し、往古を道法すれば、則ち誦(しょう)と以為はらる。此れ臣非の言ふを難(はばか)りて重く患(うれ)ふる所以なり。

故に度量正しと雖も、未だ必ずしも聴かれず、義理全しと雖も、未だ必ずしも用ひられず。大王、若し此を以て信ぜずんば、則ち小は以て毀訾誹謗(きしひぼう)を為し、大は患禍災害、死亡其の身に及ばむ。(中略)此数十人は、皆、世の仁賢忠良、道術有るの士なり。不幸にして悖乱闇惑の主に遇ひて死せり。然らば則ち賢聖と雖も死亡を逃れ戮辱を避くる能はざる者、何ぞや。則ち愚者説き難きなり。

故に君子、言ふを難るなり。且つ至言、耳に忤(さから)ひて心に倒す。賢聖に非ずんば能く聴くこと莫し。

願くは大王之を熟察せよ。

ー韓非

 

引用元:韓非子集中講義 「3. 難言」 https://kanpishi.jimdofree.com/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90-%E5%85%A8%E8%A8%B3/3-%E9%9B%A3%E8%A8%80/

 

 

まあ要するに優秀な部下の話は聞きなさいってことなんですけど、声に出して読みたいくらい韻をよく踏んでいますね

 

4.5.ディスタンクシオン 社会的判断力批判ピエール・ブルデュー

文化とは、あらゆる社会的闘争目標〔賭金〕がそうであるように、人がゲーム〔賭け〕に参加してそのゲームに夢中になることを前提とし、かつそうなるように強いる闘争目標のひとつである。そして競走、競合、競争といったものは文化にたいする関心なしではありえないが、こうした関心はまたそれが生み出す競走や競争それ自体によって生み出されるのだ。ーピエール・ブルデュー

インタビューされているそれぞれの階層の人々の暮らしや価値観を細部までうがっていて面白かった。特に若い看護師の項(看護師は技術専門職などの中等クラス、文化的洗練度は差があったりなかったりと扱われる)は面白かったです。あと教育社会学の分野については特にそうだと思うのですが、統計的なデータをとっても「中の質を知らなければ意味がない」とは、まったく別の方の言でも見ましたし、本書の中でもブルデュー自身が述べていました。

 

6.神経経済学入門―不確実な状況下で脳はどう意思決定するのか(ポール・W・グリムシャー)

神経経済学入門―不確実な状況で脳はどう意思決定するのか

神経経済学入門―不確実な状況で脳はどう意思決定するのか

 

前半が結構なじみのない分野(計算論的神経科学が苦手で今まで結構避けてきた)の古典~近代の説明で始まるので読むのに苦労しました。行動科学というのは観察された事象の計測と推論なので、心理学は後者にあたるんですよね。前者は決定論的立場から、なにを志向しているのかを明らかにする。おなじみのベイズが出てきてからは話が早いのですが、感覚と運動の結合組織としての学習の話は教科書(「比較認知科学」「認知神経科学(今年から「生理心理学」になりますが)」)の延長で読めるので面白いです。行動経済学認知心理学の前夜をみている気持ちになります。もうちょっと関連書籍を読まないとわからない部分がたくさんあります

 

7.熱のない人間:治癒せざるものの治療のために(クレール・マラン)

熱のない人間: 治癒せざるものの治療のために (叢書・ウニベルシタス)

熱のない人間: 治癒せざるものの治療のために (叢書・ウニベルシタス)

 

治療は時に、治癒を断念し、それでもなお継続して、苦しむ人に寄り添い、その苦しみを和らげようとする勇気を必要とする。その時には、死の経験を受け入れ、〔人生の〕再開ではなく、その終わりを見すえながら治療しなければならない。

病者は一人ひとりが個別の人間であり、その人の病いも苦しみも、それぞれに固有の歩調で発展し、消失していく。文字通り生きている現象としての苦痛は、個別のリズムをもち、それは時計で計ることができない。苦しみの楽譜はアレグロで演奏することができないものである。

ジョルジュ・カンギレム「正常と病理」に基づいて書かれた本。ディディエ・アンジューやジャン・リュック=ナンシー、リクールやフーコー(後者2名については自分は本人の手による著作を読んだことがないが)の示してきた「治療」の侵襲性について過不足なく書かれていると思います。こうした記述は実は看護関連書籍にはよく書かれていますが、それが個人のナラティブに終わることが多く、それ以上の広がりを他者に与えることが少ないです。「身体知と言語」などがよい関連書籍として挙げられるでしょうか。あとは「知の生態学的転回」シリーズも。

 

8.ミシェル・フーコー、経験としての哲学:方法と主体の問いをめぐって(安部崇)

フーコー全然知らないなあと思って手に取ってみたのですが知らない人間が手に取れるような代物ではなかった(博士課程の学位論文に加筆修正)

心理学に相対するフーコーの叙述の分析からはじまりますが、フーコーがおよそ「哲学」というより時代の諸相の批評に徹していたことがうかがえます。where is foucault? という表紙にもあるように、彼の論評が一体どこからどこまでをカバーしていてどんな知見を後にもたらしたかをつぶさに書かれています。フーコー本人の本を読んでから読むべきでした、反省。

 

9.例外状態(ジョルジョ・アガンベン

例外状態

例外状態

 

何も命令せず、何も禁止せず、ただ自らのことを言うだけの、非拘束的な言葉には、目的との関連をもたずに自らを示すだけの純粋手段としての活動が対応するだろう。そして、両者の間には、失われてしまった原初の状態ではなく、法と神話の潜勢力が例外状態のなかにあって捉えようと努めてきた人間的な使用と実践だけが存在するのである。ージョルジョ・アガンベン「例外状態」

律法の「動態」を観察する(過去の内容を理解する、状態を記述する)思考。分野としては政治哲学かもしれないが、ことアガンベンの中では法哲学に近いのではないかと思います。タイトルが、非常事態を許容するものとしての例外状態であることからもわかりますが。中ほどに「ある法が定まるとその制約の中で人はあそびはじめる」みたいな記述があり、これはなんとなく納得できるもののそもそも法学からきしなので法の観点から政府の状態を類推するとか、非常事態についての法が定まると左右される決定について(多くは武力行使ですが)とか難しいです

 

10.人間本性論2 情念について(デイヴィッド・ヒューム

人間本性論 第2巻: 情念について

人間本性論 第2巻: 情念について

 

 

 生き生きした情念が、生き生きした想像力に通常伴うことは注目すべきである。他と同じくこの点でも、情念の勢いは、〔情念を抱く〕人の気性に依存するのと同じくらい対象の本性や位置に依存しているのである。

…信念とは現前する印象に関係する生き生きとした観念にほかならない。この〔信念の持つ〕生気は、穏やかな情念であれ激しい情念であれ、われわれのすべての情念をかき立てるのに不可欠な条件である。想像力の単なる虚構では、どちらの情念にも大した影響を与えることはできない。虚構は〔生気の点で〕弱すぎて、精神を掴むことができず、情動が伴うこともないのである。ーデイヴィッド・ヒューム「人間本性論 2 情念について」

人間本性論の2。

誇りと卑下についてから解説が始まるあたりは感情についてというか徳倫理学と感覚が近いように思いました。知性についてで感じた、あの鋭い知覚に関する見解は得られなかったようにも思います。

読書感想文『この宇宙の片隅に』『オンラインデートで学ぶ経済学』

読書感想文というよりは「読書をきっかけに繋がる思考」についての文章です。

 

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―

 

本日読了したこちらの感想をば少し。著者のショーン・キャロル氏は物理学者です。

本文の展開は「宇宙」のとらえ方を様々な角度から検討します。熱力学、哲学、数学(統計、特にベイズ推定の説明は見事でした。本書の中にこの考え方は多用されます)、そしてその宇宙で起こっている現象であるところの生物や人間の意識についての神経科学も非常にわかりやすく紹介されています。

本書が私に推される理由は、これらが「わかりやすい言葉で」「的確に」「1冊の本に」まとまっていることです。そして何よりその志向性が「前向き」であることです。本書はゴリゴリの理系分野の説明本ですが、説明がとてもわかりやすいです。少なくとも高校生くらいで数学や物理で挫折している(進路選択に入れなかった)わたしでも読める程度です。

こんなこといっているとポジティブ・シンキング撲滅派の方々に怒られてしまいそうですが私は絶賛抗うつ薬を内服して人生が楽しいです。果たしてこれをポジティブ・シンキングかといわれると甚だ疑問です。

 

さて、本書は宇宙における「適宜自然主義」についての説明にかなり力を割いています。その内容の解説については本そのものに委ねましょう。

そして下記のような疑問(ないし問い)をもつ方に、本書はその周縁の知識を楽しく紹介してくれます。とはいえ、この本の中に関連(引用)書籍として紹介されていたものではないものもいくつか含みます。私がこの本を読むまでに読んでいてよかった、この本と繋がりがあると思うものも幾つか挙げておきます。

Q1)なぜ意識は生まれるのかークリストフ・コッホ『意識をめぐる冒険』

Q2)宇宙のはじまりと終わり、観測可能な宇宙とはなにかーマックス・テグマーク『数学的な宇宙』デイヴィッド・ルイス『世界の複数性について』

Q3)思考する機械は意識と同じといえるか、個体としての意識の限界はどこにあるのかーダニエル・デネット『解明される意識』『思考の技法』ジョン・サール『MiND』アントニオ・ダマシオ『自己が心にやってくる』ポール・チャーチランド『物質と意識』

Q4)人のふるまいは自由といえるか、またどのように決定されるかーダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』ダン・アリエリー『不合理だからうまくいく』

Q5)生物はどのような試行によって生まれるのか、また行動決定するかーニック・レーン『生命、エネルギー、進化』リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子

 

それから、哲学から多く援用しているために下記をあげておきます。

デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』

もちろんサールやデネットも哲学に含まれるのですが、ヒュームの『人間本性論』やデカルトの『省察』(とそれに対するとある貴族の婦女子との往復書簡)あたりは読んでおくと前提知識が不要になるので楽に読むことができます。

 

実存の肯定と、他者との出会いについて

「この宇宙の片隅に」は、人間のいち個体という生命の意義を「遺伝子の乗り物」とも、「思考する機械」とも断言しません(検討はします)。生命に意味はあるかー否、というのもまた然りとは思いますが、そこで本書はきちんと読者を誘導します。より「主観的な生」を肯定するほうへと。限りある人生を楽しむほうへと。

 

さて、話をかえましょう。我々は意識をもち、選択をすることが可能です。配偶者でさえ「選択」して決定します。しかしそれは何を基準に?何を目的として?どのような手段で?

 

ーここでその答えを、上段に列挙した書籍の中に求めることは可能です。が、それは人類(というか現象)に共通のものの記述でしかなく、選択による「個人の幸福」とはなにかを考えるものではありません。どちらかというと、身近な問題からほど遠く、投げ出されたような気持ちになることも多いでしょう。

そこで、人の営みであるところのカップリングについて、身近なお話であるところの「デート」から考えてみます。

 

さくっと感想:『オンラインデートで学ぶ経済学』

オンラインデートで学ぶ経済学

オンラインデートで学ぶ経済学

 

折角なので『個の生きる意味』を虚無に抱かれないで済む方法を考えてみようと思います。まず、経済学という学問体系そのものが「資本の取引」や「労働の価値化」にまつわるものである以上、社会的な関係をなにか数字で表せるものに転換可能にする様式をよくとることを前提にします。そうでないと、「この宇宙の片隅に」とうまく接続することができません。

本書はさらに、それを「オンラインデートで学ぶ」と書いていますが、私は経済学に関しては門前の小僧的存在であるために、「オンラインデート」で起こる現象に経済という社会の現象を擬人化して仮託します。

 

本書をもう読んだことがあるならばおわかりかと思いますが、非常に読みやすく、また「オンラインデート」の体験(またはそれに似たものへの知識)があれば愉快な本です。

 

「人間と出会う」ことに関して、「この世界の片隅に」は有限である試行回数のうちで個体同士がであった偶然を喜び言祝ぎます。これに対して「オンラインデートの経済学」は逆説的です。人間社会の様相が複雑化して以来、「試行回数」を限りなく増やすことができ、また自分の一部(社会的立場、年収、容姿、年齢...)を共通の記号であらわすことにより取引可能な存在にすることで「選択の自由」がもたらした現在の状況について経済学の概念を用いて説明します(書籍としての目的は逆で、オンラインデートで起こるような現象を用いて経済学の概念を説明します)。

 

 

 

そしてここからは、自分の考えていたことです。

「出会い」というものは無数の組み合わせが存在しますが、対面で会話をし、時間を共にするに至るまでにはそれまでの(恋愛に限らない)経験から培われた「好み」により選定が行われます。が、オンラインにしろオフラインにしろ人間が配偶するに至るまでの関数は可視化することができても、最適化することはかなりの困難が伴います。我々は「条件」で勿論相手を検索するわけですが、ここに「社会的要素」「地理的要素」「精神的要素」「身体的(生物的)要素」などが含まれています。

社会的要素というもののなかには実は法的な枠組みも存在しており、そもそも「結婚したり子を儲けることがメリットになる」という共通了解や社会通念、周りからのプレッシャーが存在します。「自分にとっての幸福とはなにか」を希求するときにややもすると邪魔になるものでもありますし、反対にメリトクラティックな要素を賦与することで「相対的幸福」を感じるきっかけにもなることです。

地理的要素は実は重要で、好きな人(?)のために転居・転職・住み慣れた土地をどこまで離れられるのか...など、社会的要素も含みます。他の要素と別離可能ではありません。反対に、この要素は「自由恋愛」がもてはやされていなかった時代にはあまりなかった問題だと思われます。

精神的要素としたものは趣味や価値観、生活スタイルなどです。これも社会的要素や地理的要素に影響を受けています。「文化的要因」と言い換えてもよいかもしれません。自分に置き換えた場合、話していて楽しい人が(恋愛感情を抜きにしても)大好きですが、価値観と一言で言い表されるもののなかに数値化できない要素が多く含まれていることをとみに感じます。「オンラインデート」でリアリティショックを受けるのもこのあたりかもしれません。

身体的(生物的)要素は字義どおりです。挙児希望がある場合の相手の年齢や、性的魅力を感じる対象としての生物学的要因。

 

それぞれの要因に対してかかるエネルギーがどんなものなのか、自分にすべてを説明したり考えたりすることは困難そうです。うーんむ。

 

いくつかの思考の導入

さて、物理的な「組み合わせ」の問題でもなく経済的な「自由市場」における取引でも説明できない「互恵的な関係の構築」というものを、自分はどう取沙汰しようとしていたのか書いているすっかり忘れてしまいました。ここで少し過去に読んだ本を参照してみましょう。

民族の危機、都市の危機、そして教育の危機は、すべて互いに関連しあっている。包括的に見るならば、この三つはさらに大きな危機の異なる局面と見ることができる。その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことの自然的な産物である。文化の次元はその大部分がかくれていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に目をつぶっていられるかである。エドワード・ホール『かくれた次元』

 

われわれが文化の研究から学んだのは、知覚世界の型どりというものが文化の函数であるばかりでなく、関係、活動性、ならびに情緒の函数でもあるということである。ーエドワード・ホール

 

世界は人手に不足しているのです。青年はこうした空席の一つの中に滑り込むことができます。ところが、自分にうってつけに作られた空席など一つだってないのです。青年は、人々が待っているようなあの新しい人間たちの一人になることができます。ところが、人々が待っていた新しい人間は、"彼"ではなかったのです。どうせ他の男でけっこう間に合ったことでしょうから。各人が占めている座席は、つねに無縁の座席なのです。自分の食べているパンは、つねに他人のパンなのです。シモーヌ・ド・ボーヴォワール人間について

 

私がここで言いたいのは、現代人は自分の好みよりも世間の慣習のほうを大事にするということではない。現代人は、世間の慣習になっているもの以外には、好みの対象が思い浮かばなくなっているのである。ージョン・スチュアート・ミル「自由論」

 

 

選択の自由といわれるとどうしても「自由意志」の問題に還元しがちで、そこに本当の自由はあるのか?という問いと、条件つきの選択をしていけば幸福が獲得できるはずだという功利主義的価値観が頭をもたげます。しかしどちらかといえば、「自由の選択」と「意志の自由」が我々に幸福という実感をもたらしてくれるように思います。

 

汝の隣人を愛せよ。

すべての考えに特に意味はないです。疲れたので終わります。

 

せっかくなので、最後にもっと参考になる書評をこちらに。

rmaruy.hatenablog.com

 

『オンラインデートで学ぶ経済学』解説:「もっとモテたい!」という切実な悩みから経済学を学ぼう|Webnttpub.

100冊読破 5周目(11-20)

1.時間の非実在性(ジョン・エリス・マクタガート

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

 

時間論「のみ」をあまり読んだことがないのですが、時間論結構面白いなあと思いました。ちなみに私が好きなベルクソンの「時間とは、空間的なものである」っていう考え方はあんまり取り扱ってもらえていなかった。A系列、つまり固有の時間の点において起こった出来事の後に任意の次の出来事が起こり、それらは不可逆で順序も変えることができずまた一回性のものであるという素朴な考え方における矛盾を明らかにすることによって「時間」の観念を解体するのが目的ですが、自我についての話もちょっと面白かったです。永井均の解説はむしろわかりにくいです(永井氏の文章が苦手なのもある)

ベルクソンの「意識に直接与えられているものについての試論」は、時間論でもあるんですけどどちらかというと覚醒している自我の認識の方に寄っている感じがするんですよね。

 

2.5.老い(上・下)(シモーヌ・ド・ボーヴォワール

もし教養が一度覚えたらそれっきりでやがて忘れられてしまうような無力な知識ではなく、実践的で生きた教養であるならば、そしてこの教養によって個人が自己の環境への把握の手段をもち、この把握をつうじて行なう活動が年月の推移のあいだに成就し更新されてゆくならば、彼はあらゆる年齢において活動的(現役)で有用な市民でありつづけるだろう。ーシモーヌ・ド・ボーヴォワール老い

上巻は老いの生理学的変化、人類学的系譜、当時の先端社会における高齢化とそれに伴う制度・施設における老年期の人びとの扱いについて書かれています。

下巻は、文化における高齢期、高齢期の性、高齢期の芸術的活動や学術的活動の賛否など具体的ケースをあげています。

下巻の前半部分については実存主義的・また心理学的な記述が続くので現在では結構知識が新しくなっている部分もありますが、当時において「老いること」を精密に調査した記録はあまりないのではないでしょうか。現在においても上巻の知識などは有用だといえるでしょう。

また下巻の後半~終章にかけては高齢化社会を迎えるにあたって制度の改革が必要であることを指摘しており、現在の医療の「老年医療化」を支えている自分としては身につまされるものがありました。

 

3.対人恐怖の心理―羞恥と日本人(内沼幸雄)

対人恐怖の心理―羞恥と日本人 (講談社学術文庫)

対人恐怖の心理―羞恥と日本人 (講談社学術文庫)

 

著者が精神科臨床の医師であったのですが、哲学(とくに時代的にニーチェ-サルトルの系譜)引用が多くて自分はうーんとなりました。心理というとこういうものが想像される、その最たるものといいますか。まあ本書がそもそもベネディクトの「恥」と「罪」の概念への反論として立脚しているからでもあるからでしょうけれども。贈与の観念、「あいだ」の恐怖についてはまあさんざ他の本でも論じられているので、という。

関係性の概念は今ではもう使えないものになっています。良くも悪くも今は既にこれよりずっと恥の意識も罪の意識も「他人と交換可能」になりました。これについて考えるにはもう少し言語に触れる必要があると思います。ただ論じているのは「対人恐怖の」なので、その限りにおいて有効な部分もあるかと。

 

4.心の仕組み 下(スティーブン・ピンカー

心の仕組み 下 (ちくま学芸文庫)

心の仕組み 下 (ちくま学芸文庫)

 

 最後まで読んでわかりましたが、ピンカーの「暴力の人類史」、ドーキンス利己的な遺伝子」、ダイヤモンド「銃・病原菌・鉄」を読んでデネット「解明される意識」「解明される宗教」を読んでいたら、ほぼこの本は読む必要がありません。優れているのは、各巻末にそれぞれの事象についてのタイトルがついており、参考文献がそこに1つまたは複数ついていること。この本を文章で読む必要がなさそうだと感じたら、こうやってたぐるとよいと思う。意識のイージープロブレムについてはもっと計算機科学・認知哲学寄りの解釈も欲しいので、まあなんや文化人類学進化心理学とわずかに経済学から(認知心理でも扱うけど)の理論を展開するとそういう結論になりますねという感じ。「暴力の人類史」の方が個人的にはオススメです

 

6.7.行動の構造(上・下)(モーリス・メルロ=ポンティ

行動の構造 上 (始まりの本)
 
行動の構造 下 (始まりの本)

行動の構造 下 (始まりの本)

 

「知覚の現象学」と同年に発刊された著書である。こちらのほうがより行動心理、認知心理っぽいといえばそう。知覚の現象学は比較するとすれば神経科学的にみえる(勿論それらはゆるやかにすべて接続していて領域も曖昧なのだが、見方として

知覚の現象学で提出されたのは意識の変容と部分的な意識の取り扱いであったと感じるけれども、行動の構造では当時かなり発展していた発達心理学精神分析といった「心を外から観察する」「心の志向性を分析する」シンプルな行為への前向きな批判にも思えた。ここでみられる議論は現象学というより、行動の観察と分析・還元という経過で奪取された主体性の確保であり、むしろ間主観的ながらも「実存」の存在の尊重や経験による知覚の再編をみていたメルロ=ポンティ独自のものであるように思う(これを語るに私は現象学について無知である)。ハイデガー存在と時間」、ヘーゲル精神現象学」にそろそろ近づいてきたのを感じる。ベルクソンにも多く言及されていたのだけど、「精神のエネルギー」「思考と動くもの」あたりを読んでみないとなんともわからないものかもしれない。フッサールは全然違うなと思う。

あとスピノザのエチカもいい加減ひどい積ん読なので読みたさある。メルロ=ポンティは知覚の哲学というより志向性の哲学であるようにも思えてきた、知覚主体があれば知覚の哲学に還元可能だけど主知主義についてはかなり批判的だ(それが今に至る知覚の哲学のありようかもしれないが

 

8.9.アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(上・下)(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 
アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 

この2名の手による共著を読むのは千のプラトーを読んでから1年半になる。

ジル・ドゥルーズは、どうにも精神分析との相性はそんなによくなかったのではないかと思うことがある。彼が見ているのは構造の中に生じている「意味」である(今回は欲望機械について焦点があてられている)。文化や経済の流れというものはほとんど目に見えないものであるが、ニクラス・ルーマン社会学にも似たような「システムがシステムそのものを再生産する」ような意味を受け取っていたように見える。

また、人類学の知見に衝撃を受けていたことも「アンチ・オイディプス」というタイトルと論ぜられる内容からわかるように思う。高度に文化的存在であるかれらがオイディプス王の物語とエディプス・コンプレックスという概念から享けていた思考の種をひっくり返すように、先住民の調査報告が舞い込んでいたころと思う。しかしドゥルーズ自身は実際に出向いて、性と欲望について調査をしていたんだろうか...とも思う。資本主義と精神分析はたしかに時代に翻弄されていた人間であれば目にとまる要素であるように思うけど、この著書が「千のプラトー」を超えるように自分には思えなかった。

 

10.科学と表象―「病原菌」の歴史―(田中祐理子) 

科学と表象―「病原菌」の歴史―

科学と表象―「病原菌」の歴史―

 

ポール・ド・クライフ「微生物の狩人」、ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」をうけてこれを読むと面白いです(実際本書の中でも冒頭にその2冊には触れられている)。ド・クライフの「微生物の狩人」がひとりひとりの人生とその功績をめぐる本だったとするならば、この本は「微生物学」が成るまでの彼らの「手法」と「発見された内容が後世に与えた影響」の2点に着目しているようにも思えます。カンギレムの科学史にもよく触れられています。学術が一個の筋道として出来上がるとき、むしろ出来上がった時点から理論に基づいてそれを既に発見していた人物が過去にさかのぼって洗い出されることはよくあります。本書は「如何様にして」ある学問分野が成立したのかを追っていく本です。「微生物の狩人」を面白いと感じた方ならば楽しんで読めるのではないでしょうか。

100冊読破 5周目(1-10)

1.不道徳な見えざる手(ジョージ・アカロフ

不道徳な見えざる手

不道徳な見えざる手

 

訳者が自分がわりと気に入っている人なので読みましたが、今回は経済学「のみ」というより金融取引、資産運用が絡んでくるので取引関係に疎い自分にはつらかったです。心理的な部分も一部ですしね。原題は造語で、「愚か者釣り」みたいな意味です。バイアスの一言で片付けることもできますが、企業ないし政府、銀行の策がどのように「不理解」であるとこのようなことが起こるか?の解説のような本です。ちなみに私は原理を理解していないので結構読みづらく感じました。なお、経済学の徒にはこのあたりは了解済みのことと思われます。ので、基本的に仕向けるのはやはりビジネスマンですかね。資産運用を実際にしている人たちが、過去に起こった国際的な金融危機の仕組みなどを面白おかしく知りたい時にいいかなと思います。結構ニッチな本ですね、これ。

 

2.不合理だからうまくいく: 行動経済学で「人を動かす」(ダン・アリエリー)

カーネマンの「ファスト&スロー」が意思決定にまつわるゲームのような感覚で読める本だとしたら、これはヒューマンドラマを読みながら(実際アリエリー教授の若年時代に負った全身の熱傷との闘いが説明に多く用いられます)行動経済学を学ぶことができる本です。

特に情緒と意思決定の関係について書かれた点については昨今の医療者必読と言いたいくらいですが、必読というと言いすぎですと怒られそうなのでやめておきます。信頼と怒りが意思決定に影響することや、感情的に決めた(利点もあれば欠点もある)ルールが長期に行動に影響する点など面白いです。医療者なので、アリエリー教授が若くしてひどい火傷を負ってそれから立ち直るまでの苦痛とそれの対価として得た経験知に気がいってしまいますが、人間の知覚を永続的に変化させる痛みの経験についても積極的に検討しておられ大変読んでいて面白くありました。

タイトルはちょっとトボけていますが、トボけて手に取るとまあまあいい本です 行動経済学に興味あるけど難しい本は手が出しにくいワ〜という方に是非。

 

3.倫理学案内―理論と課題(小松光 他)

倫理学案内―理論と課題

倫理学案内―理論と課題

 

面白かったです。これは教科書になるよう書かれている本ですが、まさにビジネスマン向けでもなくかといって学生のみに門戸を開いているものでもない。人生のどの時期に読んでもいい本だと思います。前提の知識も必要はない(義務教育程度)まさに万人に「勧められる」といえましょう。

倫理とはなにかという問い(理性とはなにか?)がメタ倫理学に少し行きかけるので始めを読むのはもしかしたら倫理の初学者にとってハードルが高いかもしれませんが、以降は恐らく面白いです。法(正義の)哲学、政治哲学、ポストモダンの諸相、環境倫理、情報倫理など。戦争の倫理、経済の倫理もあります。もちろん動物の倫理も含まれます。生命倫理も、科学技術の倫理もあります。教科書として十二分だといえましょう。それでこの読みやすさ、価格、薄さ。最高におススメです。

 

4.資本主義の終焉――資本の17の矛盾とグローバル経済の未来(デヴィッド・ハーヴェイ

資本主義の終焉――資本の17 の矛盾とグローバル経済の未来

資本主義の終焉――資本の17 の矛盾とグローバル経済の未来

 

三部構成。第1部で「資本」がもっている矛盾の構造(労働者の生活と矛盾する理由、ケインジアンがいう需要と供給のバランスが時間経過とともに矛盾する理由、マクロ経済的に空売りによる釣りがいつか暴落する理由など)を明かしたうえで、第2部ではその矛盾の実際にどのようなクライシス(倫理的、理論的、環境的な破綻)が過去に起こったかふりかえる。第3部でやっとセンやロールズの理論をだしながら、福祉や環境政策、グローバルな公平への可能性や金融機関の介入の在り方について論ずる。経済の視点から世界を鳥瞰できる良書です。扱う用語・概念はハードですが、本の構成が読みやすく、脚注がそのページにつけられているのでありがたいです。教科書として読み進められると思います。ブルデューの「文化的再生産」についてや、リベラリズムリバタリアニズムとの相性の悪さ(つまりノージックロールズの論)に触れているとより理解が深まるのではないでしょうか。個人的には膝を強く打って死亡しそうになる場面もたくさんあり、「なぜそういう価値の構造があるのか」「矛盾の破綻する末端にいる人を救うにはどうすればよいか」「どういうインセンティブが必要か」を考えるにあたってこの本わりと何度も読みたい。2800円とお安いです。

サミュエル・ボウルズ「モラルエコノミー」ポール・メイソン「ポストキャピタリズム」の復習としても読めるし、むしろあの2冊を各論としても読めますね。因みに著者は地理経済学の人なのですが、この「地理を知っていること」、開発経済学とか公共政策を知るうえで大変重要やと思います。

 

5.うたかたの日々(ボリス・ヴィアン

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

 

とある人が、この本をお好きだと言っていたので読みました。

20世紀初頭フランスを短く生き抜いた著者の作品。日本で言う純文学のような要素が強いです。あと、小川洋子ととても雰囲気が似ている。

なるほど…サルトルの引用や、「ジャン=ソール・パルトル」がよく出てくるなあと思ったらそういう理由だったのか、という感じです。ひしひしと時代の香りがする本。「ヴィオレット」という映画を思い出しました。

労働と実存は相性が悪い。

 

6.心の仕組み(スティーブン・ピンカー

心の仕組み 上 (ちくま学芸文庫)

心の仕組み 上 (ちくま学芸文庫)

 

心に関する進化生物学-神経科学-認知科学-計算機科学を俯瞰できる本。なお、前半350ページは私はもうどこかの本で大体読んだなあという内容でした。

集団の心理における認知的ニッチの話は面白かったです、下巻の展開を待っています。

 

7.人間本性論<第1巻>知性について(ディヴィッド・ヒューム)

人間本性論〈第1巻〉知性について

人間本性論〈第1巻〉知性について

 

前半は図形の知覚、数学的概念の分解と構成について。ここを拡げて、知覚の哲学と論理的解釈、対象と知覚の話になっていく。なるほど、デカルトとかカントを読んでいた時よりずっと具体的でわかりやすい。時々抽象度を落とすからではあると思うけど。

カントもデカルトも直観的解釈に帰しがちだったものを何で構成されているのかを分解するの、視覚科学における「デーモン」の存在は結構前から証明されていたのだなあとわかって面白いです。本書の中身はそんな内容だけでは勿論ないのですが、分析哲学・現代形而上学の先駆けやなあと思ったりしました。

 

8.「新しい働き方」の経済学: アダム・スミス国富論』を読み直す(井上義朗)

面白かったので一気に読み終わってしまいました。国富論を貧困の構造を理解するための本として読むというもの。読みやすいのでわりとおすすめである。NPOとかの福祉と産業の合間を埋めるような事業に興味ある人向けですかね。読んだことのあるもののなかでは「日本のシビック・エコノミー」と「コミュニケーションデザイン」が読書案内に入っていました。

 

9.信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム(ニクラス・ルーマン

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

 

システム理論、システム理論入門(講義録)と読んでこれにきたけど、構造主義にもシンボリックにも馴染めない人にはこれを勧めたい気がする。結構面白いし今だからこそ読める(リスク社会の考え方とか)節がたくさんあります。特にマスコミュニケーションと個人の関係について論じている項では現在浮かび上がっている問題も多くみられますし、「メディア論」とか「孤独な群衆」「反知性主義」などではとらえられてこなかった関係性への価値の賦与が描写されているので、参考書としてよいかなと思います。

 

10.都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史(吉見俊哉

都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史

都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史

 

予想通り「京都と近代」の東京バージョンみたいな本だった。1年近く前に人に教えてもらって、読みたいと思っていたのだ。「戦後東京と闇市」を読んだときにも東京という町の面白さを感じたものだけれども、本書では浅草と銀座を照らし合わせながら明治初期~昭和半ばまでの「まちの毛色」について土地の歴史とともに描きます。京都と近代のような建築・都市計画メインというよりは人間の文化がメインです。

社会人生活記 -さんねんめ編

3月が終われば、社会人生活もまる3年が終わったことになる。勿論次からは4年目で、随分「後輩」にあたる人が増えてきた。ちなみに「年上の後輩」というのはいない。正確には、いたのだが、みなドロップアウトしていった。闇である。

去年の記事はこちら。入れ子構造になっているので、去年の記事の中から一昨年の記事も辿ることができます。

streptococcus.hatenablog.com

 

相変わらずとめどなくつらつらと書こうと思う。

 

仕事と生活について

3年目になって新しく始まったこと

は、あまり面白いことがなかったのでそんなに書く気がない。2年目の仕事をブラッシュアップするだけのことである。2年目では時間が足りなかったり余裕がなくてできなかったことを、他の仕事を効率化することでじっくり考える時間を増やしたりした。

具体的には本当にこれはつまらないことで、病棟を委員会の長をおっかぶされたりしたのだが、のらりくらりしながら続けた。あと1年生の教育も幾らかは(他の病棟スタッフと同じように)責があって、向いていないながらもやった。怒るとか怖がらせることのないように、必要な学習が行き届くように、毎日彼らが健康に来られるようにと思ったが実際に言動に出せるほど私の発言力は強くない。

 

3年目になって初めて起こったこと

こちらが今回の記事の本題である。

この記事を好んで読まれるような方はご存知のことと思うが、自分は10年来気分障害を患っており、仕事を始める前からも仕事を始めてからもずっと情緒の不安定性や悲観は続いていた。悲しいことがあれば長く長く落ち込み、ものがのどを通らなくなることもしばしばあった。

 

今年の冬は寒かった。

「だから」というわけではまったくないが、この因果関係のない前置きをするのが好きなのでお許しいただきたい。今年の冬は寒かったのだ。まあ、とにかく、1年間の多忙やら働き始めてからの苦しさが堆積してしまったのか、1週間と少しの病気休暇をとった。働き始めてから、数日にわたって休んだのは初めてのことである。

 

何も特別なことではないと思う。

「何が」特別なことではないのか、「何が」特別なことなのかを下記に続けることをお許しいただきたい。

 

社会人にとって「特別ではない」憂鬱な気分と、短い休みについて

ここでひとつ、「プロ」としてではなく、当事者として、かつ当事者としての自分からお知らせしたいことがある。

 

人は誰でも抑うつ状態になりうる。それも簡単に。そのうち多くは一過性の抑うつとして回復を期待できるが、中には長い間抑うつ状態におかれた結果、何らかの心身症を発症してしまうことはある。

新生活になるときは誰でもストレスフルな状態である。

「ストレス」と本人が知覚していない場合でも、そうだ。第一志望の企業に就職して都内に出る。結婚して転居する。そんなときでも、知れずに負荷はかかっている。

こうしたとき、3日と言わず1週間くらい休みがあればよいが、そうでない場合がほとんどである。普通の生活を営みながら、新しいことをはじめなければならない。特別な休みはなにもない。

 

対人関係でセンシティブな傾向にあればあるほど、こうした摩擦による疲労はあるものと思っておいたほうがよいと思う。それから、日常生活において注意散漫になりがちで、何かひとつのことを実行するのに並々ならぬ注意力を要する人についてもそうである。「注意」というものはリソースを食うものだ。

「集中できない」状態はひとつのサインかもしれない。よく休もう。

 

わたしにとって「特別なこと」について

上の方にも書いたように、自分はたびたび抑うつ状態を長引かせてまごついた人生を送っている。具体的には、高校卒業後2年間の休養を要したし、専門学校に入学してからも実習を休んだために1年留年している。なので、このコースを歩む一般の人からは3年も長い無為を経験してきた。

若い人間にとってそれは多大なる挫折である。特に、ちっぽけな自尊心をせいぜい成績くらいでしか買うことのできない人間にとってはこれは高い鼻をめきめきとへし折られる行為に等しい。私の高い鼻(物理)は今も健在だが、社会的な高い鼻などないに等しい。最早削ぎ落してどこかに置いてきた。

 

社会人3年目にしてとうとう体を少し壊してしまい、1週間強ほど休んだが、無事に復調している。これは快挙である。

 

自分には後ろ盾がなにもない、という感覚がいつもあった。

人生がこうももたついているため、高校を卒業してから復帰のためにあれこれと手を付けては失敗し、そのたびにもう死んでやろうと思うほど絶望した。今でこそこうして文字にしても痛くもかゆくもないが、絶望するたびに自分は食事を断ち、自分で自分の身体を傷つけてきた。そうでもしないと世界に存在してはいけないような気がしていた。

将来は暗く、このように人に厳しい世の中ではきっと自分は地を這うようにしか生きてはいけないだろうと思っていた。だから、生きていても仕方なく、いつか死のうと思っていた。

それが、少し診断書をもらい、服薬するだけである程度元に戻り、仕事を継続できているのである。今までにこんな安定した気分を経験したことはない。いや、気分は安定しないが、社会的な安定を得たことはほとんどない。この上ない人生の喜びだと思う。

 

うつで仕事を休んでこんなに喜んでいるのは自分くらいのものかもしれないが、うつ状態の経験者にとっては「治療を続けながら以前と同様の社会生活を継続することができる」のはほんとうに快挙である。

 

「休めば治る」を自覚するのは難しい。「休んでも根本は治らない(かもしれない)」ときの自覚はもっと難しい

上記に書いた「短い休み」は、実はかなり高度な「だらけスキル」だと思ってほしい。通常の勤勉な人は、勤勉であればあるほど、こういった休み方はしづらいと思う。学校生活や勤労において、この程度で復調できるほど短時間で生活を整えるのも、内服を調節するのも慣れた人間でないと難しいと思う。

だから、休みは少なくとも1か月から数か月単位で取るものと思ってもらうとよい。

これは働き始めたときの同期、1年下、2年下の「年上の同期・後輩」たちがドロップアウトした経過をみていて思うことである。かれらには情緒の後ろ盾があまりない。私にそれが可能であるとは思えなかったので途中からは諦めてしまったが、「心が壊れている」と初回の自覚をするほどであるとき、それはもはや数日単位の休養で元に戻る段階ではない。

 

また、これらの抑うつ状態が「何によってもたらされたか」は先を生きるにあたって重要な観点だとも思う。

たとえば自分は憂鬱な気分を常にもっており、怒りを抑圧する性格上、おそらく生涯この憂鬱とは向き合い続けなければならない。時々短い休養を挟むことも必要となることだろう。「自分自身」を引き受けるのは本当に骨が折れる。こんな自分は投げ捨ててやりたい、と何度思ったかわからない。しかし、自分の知覚をもって自分自身を生きることができるのはやはり自分しかいないのである。

こういうことはいくらでも書けてしまい、書くと余計に長くなるので、少し中途半端になるがここまでにさせていただきたい。

 

知識(知性)と労働について

労働と生活、労働のコントロール、余暇の楽しみと付加価値について

労働に慣れてきたあたりで、今年度は大学生をはじめた。認知心理学をやりたいと思い、放送大学でとれるような科目は大体履修した。

5年働いたらCNS(専門看護師)の資格を得るべく2年間の休職(または退職してアルバイト生活兼業で)大学院進学を考えていたが、これは諸事情により保留されることになった(恐らくいつかこの2年間を経ることになるとは思う)。

学生時代~初期の教育制度、労働の裁量権などについて考えるにつれ、我々には単なるスキル向上以外にも多様性をもたらすことができると気が付きつつある。数年上の先輩の中には語学習得のためにワーキングホリデーなどで海外で息抜きをする先輩もいる(ほんとうに事情はそれぞれであると思われるので、内容については差し控える)。

家庭を持つ人もいる。が、家庭を持つことは何かを諦めることとまったく同義ではないこともまた証明できると思う。多くは自分自身のキャパシティと相談しながらになると思うので、これも他人についてあれこれいうべきことはなにもない。

 

さいごに

後輩をみていると、全体的に知識の枠組みが狭い。いや、これは幾らかの先輩にも思うことなので、あまり考えないようにはしているが、振り返るとまさにそうである。

ただ、長年この特殊な職場で継続して働いてきた以上、知識の堆積は確実にある。知識というよりはそれはすでに潜在的なものとなっており、彼らの「常識」を理解するには時間がかかる。彼ら自身がそれを言語化することをしてくれないためである。私は後輩と接するとき、この身体知の翻訳に努めるようにしている。これは4年目になっても恐らく変わらないことであると思う。私は余計な話しかしない嫌なやつでありたい。

 

以上これらの話にまったく脈絡はないものの、そもそも日記に章立てをしないと書けず、既に原稿用紙10枚分の文字を綴っていることを思うと四方山話もそこまでにしておけという感がある。

まったく推敲していないいつもの文章を投げてしまうが、反省はしていない。

もっと気になる人のためのおすすめ10選(301-400の中から)

お待たせしました。今回はちょっと題名を変えて、「もっと気になる」あなたへのおすすめ。どんなジャンルなのか、どんな方におすすめなのかも書いていきます。あまりにも読みづらい本は基本的にいれていません。どれもこれも、読んで考えるのはどちゃくそ楽しいゆえにおすすめとなりました。哲学・思想多め。

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