毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

放送大学の通信指導(中間考査...のようなもの)を提出する

えーと提出してから気づいたのですがわたくし大きな盲点がございました。

これ、1問でも正解していれば合格なのだそうです・・・。

在学してるんやから知っておけや!という話ですが、仕事があまりにも忙しくてほとんど授業は聴けないほどなので、そもそも必要最低限の情報にしか目を通していないのです。

いや、だからといって1問正解でもいいかといえばそうでもないと思うので(単位を取るためだけに勉強してきたわけではないので)、私の今回の1か月半の学習方法(というかほとんど勉強していない)とその結果をなんとなく開陳すべくブログを書いております。

 

0.前提条件

わたしは現在看護師として就労していますので、看護師国家試験レベルのことは知っています。心理・教育コースに編入学したのは、完全に興味本位・目標なしで大学入学するよりもちょっとだけ目標が欲しかったからです。今回取得した単位に関係することで少し知っていることといえば、小児に関する授業(ピアジェなど発達心理)・生涯発達に関する分野(エリクソン・ハヴィガーストなど)、それから神経科学に関すること(解剖・生理学における神経細胞の構造と機能や記憶・知覚に関する網羅的な内容)でしょうか。あとはまあこの1年と少しで読んだ莫大な本からちょっぴり覚えた知識くらいです。

 

専門学校卒なので、高度専門士だったか専門士だったか忘れましたがそんな感じの学位を持っています。ですから、普通の大学だと既習の単位を利用しますと大学の3年生に編入できます。ちなみに放送大学においては看護学の学位を取得するためだけであれば、1年間在学し31単位を修得するだけでも専門分野の学位はもらえるのですが、私は看護学そのものにそこまで学位のメリットは感じていなかったので、最低2年在学して看護と教養の学位を取得し、教育・心理のコースで認定心理士の資格を取得するためにある程度必要単位を履修したうえで、残りは興味のある経済・経営・哲学分野の単位に集中しようかなあと思っております。

 

1.今回とった授業の内容とその理由、それぞれの特徴

心理学の中でも、わたしの興味は認知心理系です。自分の本来の専門分野としては臨床心理に興味をもつべきなのかもしれませんが、あれはあれでプロの業なので別物だと思っています。苦手分野は行動心理学とか学習心理学ですね。いまいち覚えられません(昔卒論のために全般に学習はしました)ではそれぞれの科目概説へ。

1.発達心理学概論(向田久美子)

認定心理士の必修単位なのでとりました。授業は第一回放送を聴いて(そしてほとんどを聞き逃し)、心が折れたので教科書を通読しただけです。小児から老年にかけての発達における心理学で、小児科の知識はまあまあ活きるなあと思いました。

 

2.教育心理学概論(三宅芳雄・三宅なほみ)

これも必修。この教科だけ授業6回分くらいをご飯作りながら聞きました(つまり真面目に聴いてない)。人がどう賢くなるかの学習システムについて。でも行動心理学とか学習心理学というより、認知心理学に近いです。

教育学は一応専門学校で既習(概論程度ですが)だったのですが、教育史学っぽい側面もあったので新たに学ぶ気持ちで読みました。なお三宅なほみ先生に関してはすでに故人だそうです。優しいお人柄の滲む楽しい授業だったので無念です。

三宅なほみ教授は専門はどちらかといえば認知心理学とのこと。教科書を読んでいても楽しかったです。

 

3.認知心理学高野陽太郎

認定心理士の必修単位にできる。この本だけ教科書めっちゃ分厚いです。授業は聴かなかった・・・ような気がします。

カーネマン&トヴェルスキーの本を何冊か読んだのと、ノーマンの本は読んでいてよかったような気がする。でも今回点数1番低かったです(試験がんばらにゃ)

認知心理に関する全般的な内容を含むので範囲がめっちゃ広い。

 

4.認知神経科学(道又爾、岡田隆

認定心理士選択科目。いずれも現在上智大所属の先生のようです。実験心理学・生理心理学分野。

神経細胞の仕組みとかはたらきは大体学生のころに習っている内容ですが、さらにそれが認知にどう作用するかといったお話にちかい。

ちなみにかのモジャモジャ・・・おっとすみません、お騒がせな脳科学者氏についても昔はこの分野ですぐれた著書を書かれていました。著作を読んだことがありますが当時の神経生理学的には非常に先取的で、現在の基盤になるようなことが書かれていたのを記憶しております。

 

5.比較認知科学(藤田和生)

動物心理学がご専門だそうです。動物と人間の違い、人間と霊長類の違い、または共有部分について。結構今回の教科の中では適当にとってしまったのですが面白かったです。そして適当にとったわりには必修単位に含められるようで助かった。

 

6.危機の心理学(森津太子、星薫)

中高年の心理と迷ってこっちにしました。危機といっても、なんというかエリクソン的な危機ではなくて危険の認知とかに関するものですね。なのでノーマンの名前とかめっちゃ出てきます。わりと行動経済学的な話が出てきます。必修単位かどうかは忘れました。あ入ってました。

7.社会心理学(森津太子)

これだけ教科書がちょっと別物。8冊の本を紹介する形式で書かれています。初回がミルグラムの『服従の心理』でちょっとワクワクしてしまいました。

社会学的というよりは心理学的な読み物としても教科書が楽しかったです。社会心理学ちょっと眉唾すぎんか、とよく思うので存在意義の見直しとしても授業を受けてよかったです。

 

8.ソーシャルシティ(川原康弘 斎藤参郎)

これだけ『産業と社会』コースの授業です。都市・建築の話が好きなのでとりました!消費者経済に対する情報通信技術の参入についての授業です。おもしろいです。

 

2.実際とった点数(1回通読→見直し提出)

1.発達心理学概論(60%→100%)

さすがに小児科の知識だけではこの程度でした(見直し前)

2.教育心理学概論(70%→90%)

好きなので教科書通読するときにもよく読んでいたのでこんな感じ

3.認知心理学(70%→70%)

見直してもわからないって端的にマズイので試験ちゃんと勉強しようと思いました。

4.認知神経科学(40%→90%)

 

基礎は学習したはずなのに通読しただけではさっぱりぽんな感じがひどいです。

あとこの科目だけ、今回受ける中では記述なのでしっかりしなきゃなあという感じがあります・・・多分持ち込みは可能ですけど。

5.比較認知科学(40%→90%)

こっちも専門外で難しかったのですがやり直ししたらちゃんと解けているので試験までに頑張ろうという感じです。

 

6.危機の心理学(40%→90%)

なんで初回こんなに間違ったかというくらいケアレスミスも多かったです。

7.社会心理学(63%→88%)

問題が8問だったのでこうなりました。

 

8.ソーシャルシティ(90%→100%)

 

ちゃんと書き写せているかわからないけどこんな感じ。

 

ちなみに心理統計の授業がまだなのですが、そこに『単位が取れていてもそれは大学において”授業には一応出ていた”程度の意味しかなく、実際に教科書の内容を説明したりできる程度にならなければ実務や研究には使えない』と書かれておりましてな。勿論その通りなのですが、点数はともかくとして(前提ではありますが)きちんとそれぞれの教科の知識を深めていかなければなあと思うのでした。

 

3.1か月半勉強してみて思うこと

正直、仕事しながら勉強するのは普通の社会人だと結構きついなあ、という印象です。私の場合、もともと興味のあった分野で去年1年間にたくさん本を読んで前提知識を身に着けていたというのと、それから門外漢ではなかった(心理は看護の分野にもひじょうによく使われる概念なので)のが大きかったかなと思います。

これがたとえば、わたしが比較的苦手とする数学で大学レベルからはじめよう!なんていうことになったら挫折すること請け合いです。

 

ちなみに私のこの半年の勤務ですが、夜勤がとっても多かったので勉強する時間はほとんどありませんでした。夜勤の前の日は朝から晩までの12時間(休憩時間除く)、ほとんど立って働くような勤務なので、体も頭もヘトヘトになります。他の仕事に就いたことがないのでなんともいえませんが、医療職が激務と呼ばれる所以はそのあたりにあるでしょう。拘束時間中はイレギュラーに常に対応し続けなければならないので、自分のペースでは何もできないといっても過言ではないのです(状況をコントロールすることはできますが)。

 

そんな中で現実逃避もかねて始めた勉強ですが、効果としてはまあ悪くないかな、という感想です。仕事に直接役立つかというと微妙です(なので、仕事関係の勉強も合間にしていました)。

が、下手なビジネス本を読んで自己投資したと思うくらいであればこちらをお勧めします。結構科目をたくさんとったので上半期の学費が10万円くらいしましたが、同じ期間を語学学校にでも通うと思えばまあこの程度でしょうか。

 

というわけで残り2か月弱もせっせと勉強してフル単位を目指します。大学生イェーイ。

万物は流転する -3年目にっき

とうとう社会人3年目に乗り出した。いや別にふつうに過ごしていればなんら不思議のないことであってどうにも腑に落ちないが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は相変わらず激務です。いやしらんけど。

年度が終わるごとに書いている日記と、はじまってから数か月で書いている所感のようなものがあって、今回は3年目がやっと軌道に乗ってきたので所感を残しておこうと思います。

 

streptococcus.hatenablog.com

2年目の終わりにこんなことを書いていました。

ちなみにこの日記のなかに、1年目の終わりに書いた記事へのリンクが芋づる式に出てきますご注意あそばせ。

 

身体は臨床にいて心も一応臨床のことを考えているはずなのだけれど、考え出すとそのさきの色々に及んでいってひとつところにとどまることができない。

その「とどまりのなさ」は、上の記事のように私に1年で様々な分野の本を読ませたし、今なお突き動かし続けている。もはや自分の意志でないといってもいいのではないかというくらい、なにかを考え続けている。

勿論仕事に関係することを学ぶ手を止めるつもりはないけれど、それだけだとどうにも自分は息が詰まってしまうらしい。

 

自分は過去の自分の発言に多く裏付けられていると感じるけど、同時に心もとなさも常に感じている。足場が着実になればなるほど、その足場をすぐに次の一手につなげてしまうのはいささか浅慮であるとさえ思う。

この2年間で、臨床ではいくつもの慢性疾患のすえの死を看取ってきた。だからといってそれが基礎研究であるとか、死生学に至るであろうというのはわたし自身にとっては早計に思えて仕方がないのだ(勿論それが、他人からの助言という些細な影響に過ぎないとしても)。

そもそも元来自分はものすごく他人の影響を受けやすいくせに、最終決定は結局自分の超自我にしたがうしかないという非常にめんどうくさい特性をもっていて(みんなそうかもしれないが)、人の話はよく聞いて喜ぶくせになんら決定には関与していなかったりする。まあ他人の言なんてそんなものかもしれないが。

大体人のいうことを聞くやつなんて研究には向いていないのだ。

 

 

 

そういえば、1年生の教育に関わっている。

あれはとても大変で面倒くさい。面倒くさいしか言っていない。

何から言えばいいかわからないしどこまでいっていいかもわからない。でも1年生から私が学ぶことはとても多そうだから、今年1年かけて興味深く見守ろうと思う。なにせ今まで下はほとんどいなかったので。

夜は短し歩けよ乙女

「あ、これはいい」というのは、森見登美彦の『四畳半神話体系』がアニメになったときから思っていました。あの空間に関する絶妙な感覚は映画では絶対にできないし、テンポ感も小説そのままだったから。今回観に行く機会があったのをとても嬉しく思います。

ちなみに、面白そうなので新海誠監督の『君の名は。』と、悉く対比させていこうと思います。

 

 

アニメーションについて

比喩の表現が非常によくできていました。デフォルメがじょうずなので、言葉にしてみると大げさな内容がそのまま絵になって動く感じです。

君の名は。』に、デフォルメはありません。映画のように、知覚に忠実に描かれている。それが本物と感じられるように。反対に、『夜は短し~』では、実際アニメーション化されたものが目に見えることは決してないのだけども、比喩として言葉によくしていることがそのまま使われているのです。

 

あと、本編そのものについて、図式化されると確かに宝ヶ池は御所からみて鬼門だったなあ・・・とか(岩倉実相院のあるあたり)、鬼門だの疫病神(李白そのもの)とか色々民俗的なことについて考えることが多かったです。原作を読んだときには、李白老人についてそこまでつよく意識した覚えはないのですが。

 

知覚と抽象概念の取り扱いについて

アニメの途中で「ねこぢる草」を思い出しました。サブカルの中でもアングラよりのものがお好きな方はよくご存じだと思うのですが、シュールで複雑な世界観をアニメーションにしている作家の方です。ちなみにすでに故人です。そのことでも有名なんですけれど。

君の名は。』と較べることができてしまうのでどうしてもやってしまうのですが、夜は短しでは「自分の頭の中での出来事」がよく絵になります。乙女の胃のなかが温まるのもそうですが、「私(作中では先輩)」の体験・知覚世界がそのままアニメになります。これは実は映画では絶対にできないことで、だからこそアニメを観るときにはすごく期待しているところだったりします。とてもよかった。例えば脳内会議で「イド(エス)」の声、「スーパーエゴ」の声、などなどいろんな声が聞こえるシーンがあるんですけど、まさに自分自身の心の中って常にそういう状態なんですよね。一歩踏み出すにもとても勇気がいって、言葉一つひねり出すのに何年もかかったりする状態。本作に出てくる人はみんなそういう「内面世界」が豊かなんです。

ちなみにこれを『君の名は。』とか、新海監督の他の作品(わたしは『秒速5センチメートル』と『ほしのこえ』『言の葉の庭』くらいしか観ていませんが)に当てはめると、それらは「心象風景」として表現されます。雪の冷たさ、影の暗さ、緑の瑞々しさのように。あくまで「視覚世界」へのこだわりがつよい。そこに心象風景を投影していくかたちで話が進みますし、言葉はとても少ない。しゃべったとしても、本質的なことは観る手に委ねられています。ところが、夜は短しでは、抽象的な(むしろ前衛的な)絵画のごとき世界観となってキャラクターをつぶしたりこねくりまわしたりもてあそんだりと、人間の心の中の七転八倒ぶりをそのまま描いてしまうわけです。私は、せっかくアニメなのにこれをやらないのはもったいないって思ってしまう。

 

空間・時間の感覚について

李白が孤独に耐える時間がありましたね。あの表現もとても好きで、いや、詭弁論部OB.OG会でも出てきましたが、「時計がこんなにゆっくり進んでいる」「私たちにはもう時間がない」という感覚、あまねくいろんな人々と交流していなければ得られない概念だと私は思っています。

つい嬉しくて哲学の話になってしまうのですが、ベルクソンは「物質と記憶」にて、時間とは空間的なものであると述べました。それは時間というのが実際には計測する際に時計の秒針の動きのように、空間を測ることによってしか共通の感覚を持つことができないみたいなのを私自身は著作を読んでも理解できず土屋教授の本から学んだのですが。

日々人間を相手に仕事をしていると、おのおの物事のとらえ方も、感覚も、ストレスへの対処法も、死やそれに準ずるたいへんな危機状態に対する心理もほんっっとうにそれぞれ違うものであることをしみじみ感じます。「自分以外の人が何を感じどう過ごしているか知りたい」という相互的な欲求が物語の最後にあったのは、正直表面上の言葉のやりとりなんかよりずっと大切だと思う。

村上春樹の小説なんかにもよく言われることですが(あれはあれで私はとても好き)、物語には人と人とのやりとりがよくでてくるのに気持ちが通っていないシーンがありますよね。大体のアニメを観ていても、違う概念をすり合わせて納得するシーンだとか、すれ違ってどうしてもわかりあえない困難には直面していなかったりして悩んでしまうんですよ。事物についてのすれ違いはあっても、観念や認識についてのすれ違いをそれそのものでわかりあうことの困難に日々直面していると、なんというかそう簡単にわかられてたまるかという卑屈な気持ちになってしまうのです。

勿論、物語の中でくらいそうあって欲しいという気持ちもわからなくはないですが、少なくともこのアニメを作ったひとはそういうジレンマが表現できるのだなあと思って嬉しくなりました。

 

圧倒的な文字数というか言葉の数

原作が小説ですから当たり前といえば当たり前なのですが、言葉の密度がものすごく高いです。これ、森見作品に慣れていない人が聞くと「字幕もない日本語映画なのに理解できない」ということになりかねません。というか、日常会話で使用しない(私は使ってよく怒られる)言葉が頻発するのでこれ普段本読まない層は理解できるのか・・・?と思うなどしました。まあ数語理解できなかったところで面白さは損なわれないでしょうが。

 

ところで話は変わりますが洋画を吹き替えで観る層っていますけど、字幕を読むという行為も実は訓練が必要なんですよね。字幕の切り替わりは結構早いので、幼いころから洋画を字幕で観たり、あるいは後付けで訓練しないとついていけないのだそうです。

 

さてさて元に戻ります。

あとは、『君の名は。』が絵画的・印象的な映画だとすれば、『夜は短し~』は戯曲(とくに喜劇)的だなあとも思いました。理由は今までにまとめたとおりなのですけれど。

 

とりあえず忘れないうちに投下しておきます。また思い出したら何か付け足すのかもしれないし付け足さないのかもしれない。

100冊読破 3周目(31-40)

1.日本のメリトクラシー 増補版: 構造と心性(竹内洋

日本のメリトクラシー 増補版: 構造と心性
 

日本の学歴社会についての構造の解析。随分真面目な本(というか学位論文らしい)なのだけど、よく話題になっていることについての議論なので大変面白く感じられつい読み切ってしまった。『差異と欲望』を読んだときには非-数値化された教養の構造についてだったものが、明文化されている。職歴や会社内での階級・昇進速度などなどの図示のほか、『職業』ではなく『職場』の選択志向性などといったことも最後の方には話題になっていて、ああ確かにいまはそういう時代であるなあと思ったりした。1995年の増補版なのだけど今だからこそ読みたくもある。

 

2.「原因と結果」の経済学―データから真実を見抜く思考法(中室牧子)

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

 

統計疎いので専門用語が出てくると参ってしまうことが多かったのだけど、こうやって例を出しつつ説明されると興味をもててよいです ただ統計の方法や手続きとかを『解説』したものであって自分で組み立てられるようになるかというとまた別問題なので、これを元手に勉強に興味もってね!という感じの本。

アンガス・ディートンの『大脱出―健康・お金・格差の起源』とかアンソニーアトキンソン『21世紀の不平等』とか、『差異と欲望』とかを読めるのであれば必ずしも必要ではないと思います。話題が直近のニュースであるのと、ダイヤモンド社なので言葉が平易なのが魅力です。どちらかといえば、『このデータでは何ができないか』というのの参考になるかなという気がします。次は「やさしい統計」か「ダメな統計学」を是非読みたい。

 

3.ツチヤ教授の哲学講義(土屋賢二

ツチヤ教授の哲学講義

ツチヤ教授の哲学講義

 

哲学が対象とする問いについての概説。用語の解説とかは少なくて、むしろ哲学がたてる問いがなんであるのか、っていう感じです 秀逸なタイトルだったなあと思うのが「哲学は何でないか」っていうの。章のタイトルなんですけどね。

哲学の本をあれこれ読んでからこれに戻ると、けっこうおもしろいです。

 

4.〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則(ケヴィン・ケリー)

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

 

めっちゃ面白かった。経済学的でも技術優先的でもなく、倫理でもなく芸術でもない。現状の記載がこんなにわくわくすることってあまりない。ぜひおすすめ10冊にいれたい。実は図書館でもいっときおすすめ本の筆頭に挙がっていた。『いま、世界の哲学者が考えていること』のうちのITとかバイオテクノロジーに焦点をあてた感じに近い。そしてなにより結語がよかった。結構この本おかたいところもあるんだが、遊び心もふんだんにある。ゲームのリアリティの変容なんかもおもしろい。最近になってシンギュラリティという言葉がえらい一人歩きをしている感じがあるが、そもそも時代の全容を肌身で感じていれば小さな常にシンギュラリティは連続的に、また局所的に繰り返されてきている 本書はそうした見解を示すものだったので私はわりと好きになった。

 

5.ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか?(ダニエル・カーネマン)

ファスト&スロー (下)

ファスト&スロー (下)

 

上巻を読んでの続きなんですが相変わらず面白かったです。アンガス・ディートンの貧困の経済学にも触れつつ、幸福(効用)についての意志決定をいろいろと。エコン(常に合理的決定を下す存在)でない我々が面白いのは、直観的な選択それそのものを楽しめるということだと思う。間違うということがわかっていればそれでいい。

経済学における意思決定というのはつくづく結構まじめに(不真面目な社会学なんかよりはずっと真面目に)人間の幸福を前提の目標としているのだなあということ。「死にゆく患者と、どう話すか」を読むともっとそう思います。意思決定をすることは難しい。統計的な、あるいは数学的な正しさと、実体験は違う。実体験のなかにも、満足のいくものと、苦痛を伴って耐えられないものがある。「数学的に正しい選択」をして、自分が納得できるかどうかはやはり別なのだろうとも思う。

 

6.死にゆく患者と、どう話すか(國頭英夫)

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

 

看護大学のコミュニケーションのゼミで行われた講義録。

ふつうに一般人が読んでも面白いと思ったので、100冊読破に入れてしまいました。学生らは高校を出て1年目の大学1回生。でも、先生に引きずられて気づけば思いもよらない問いをたて、それに仮説まで与することができるようになっている。

『場の倫理』といってもいいかもしれません。肉体と向き合って、生命そのものの時間を前にして、自分たちはどういう態度をとるのか?何を相手から引き出すのか。そういう考えで楽しめます。

 

7.思考の技法-直観ポンプと77の思考術(ダニエル・C・デネット

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

 

 図書館で見つけたのであーデネット!と思い手に取ったのですが大変よかった これそのものは結構難しいので、『いま、世界の哲学者が考えていること』の思考内容を開陳したバージョンと捉えてもいいです。答えだけが知りたければ、各章の最後の要約だけを読んでもいいと思う。

『解明される意識』はまだ読んでいなくて、デネット氏本人の著作は『解明される宗教』しか読んだことがなかったのですが、邦訳になっていても実に活き活きとした語り口と鮮やかな切り口でなんというか読んでいて楽しい本です ゲームのような本です

認識(情報処理)/意識(現象の行為主体であること)/自由意志についてあたりが面白かったなあと思います。プログラミングに関する話も言語処理に関する話も出てくるあたりが、ウワーこのひとの本読んでヨカッタナーという感想しかでてこなくなる。無能。

私がデネット氏のこととても好きなのは、宗教にしろ情報システムにしろ進化生物学にしろ、「なにかをナンセンスだと腐すことには意味がない」という首尾一貫した主張があるところです 暫定的な解法はあくまで暫定でしかないことも、答えが出るのであれば手法は問わないことも徹底している。

 

8.生命科学の歴史―イデオロギーと合理性(ジョルジュ・カンギレム)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

 

 病の皇帝とは違って物語化していないし、すべての科学を扱うのでふつうにニュートンとか出てくるのであるがこう…なんだろう、本文中にもあったけど『イデオロギーとは事実そのものではなく発見された事実をやぶにらみするもの』っていうのよくわかる。モナドが実在したように、organ(器官)が今も生理学で使われるように、なんというかそういう概念の取り扱いが先立って実証されるというのは毎度繰り返されているから、四体液説とかも概念上不思議なものでもないんだよなあ。否定はされているし科学でもないのだが。

はじめて専門的な勉強をしはじめたころを思い出した。解剖みたいにあければわかるものはともかく、ホルモンの測定とか、実際の血流だとか、測定が難しいものの計測やらそれの治療法、どういう風に編み出したんかね、とよく思っていた。マジャンディ孔は脳脊髄液の流れ口として今も名前にある。

歴史を繙くと、今のような似非科学疑似科学?)のようなものは生まれようがないのですが、複数のイデオロギーの対立を目にしてこなかった個体が情報の取り扱いに難渋している結果といえるのかもしれない。ごく最近になるまで最大の敵はがんでも生活習慣病でもなく感染症だったのにね(今もだけど

 

9.貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス(エステル・デュフロ)

貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス

貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス

 

ファイナンスの章が簡潔で理論的に書かれているのに難しく感じるあたり、やはり自分は金融・投資関係にほんとうに疎いなとおもう

いくつか本を読んで思ったけど、最貧困(絶対的貧困)に対する支援と相対的貧困(『卓越性』の逆に相当する)に対する支援はまったく別のものだということがわかる。日本では相対的貧困に目が行きがちだけど、相対的貧困も下層は絶対的貧困に転がり落ちていく。この本がすごいところは理論ではなくて実験結果であるということ。仮説とそれに対する実証を社会実験に落とし込むことはお金も時間もかかるし結果も出しにくい。とくに所謂貧困国における実験って相当大変だったのではないだろうか。

あと貧困そのものについて考える力を貧者に返す、っていうのは確かアマルティア・センがいっていたエンパワメントだったかなあと思うんですけどそれそのものも貧困国においてはトップダウンではなく(官僚が私腹を肥やすので)NGOによってもたらされることが多いっていうの、さもありなんだった

貧者に対する保険・融資に関する話は正直自分にはちょっと難しいのだけど(福祉でなくてなぜ融資の緩和でないといけないのだろう?)、それこそ福祉で補ってしまうと財源がないのと自律性を損なうのかもしれない。自律性を養うのは容易いことではないけども。

 

10.ポストヒューマン・エシックス序説: サイバー・カルチャーの身体を問う(根村直美

これなあなんというかアンケート形式の悪さは結構前面に出ていた気がするけど、MMORPG長くやってた人間としてはすごく面白い話題だったんだ。

ゲームとの身体性の乖離、SNSにおけるコミュニケーションのありかた、いくつかのキャラクターを自分が「演じる」ことについての哲学。いいぞもっとやれという感じ。

100冊読破 3周目(21-30)

1.差異と欲望―ブルデューディスタンクシオン』を読む(石井洋二郎

差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

 

 彼らは必要性の要請によって自分が受け入れざるをえないものを『好んで』受け入れるのであって、手の届かない財に対しては『これは私たち用のものじゃない』といった言い方で、はじめから趣味の対象から除外してしまうのである。ー差異と欲望 ブルデューディスタンクシオン』を読む より

ブルデューディスタンクシオンそのものを読んでいなかったのだが、明らかに本書が原著を忠実に読み解いたひとのものであることがよく伝わってくる良書であったとおもう 例においても日本における具体的なものを挙げてくれていたので非常にわかりやすい。ディスタンクシオンそのものは『卓越性』と訳されていたが、これは本書の発刊からさらに20年以上を経て世相がやや変化している今、さらに面白く読めるのではないかなあと思う。一億総中流から一億総下流と言われて久しい(か?)し、文化資本を希求する所以がよく著されている。

私自身の話をしていいならば、この『プチブル』層において異様な雰囲気をたまに感じていた。いや、かつて田舎の学校にいたころは完全なる文化資本の困窮に辟易してはいたけれども、こうしていま街に出てくるとわざわざ後付けの文化資本を子に課す親の多さに驚いたのだ。ツイートなんかでもよくみるけれど、自身は本を読まぬのに子に本を読ませる(勿論どんな本がよいのかもわからないから人に訊く)、子に所謂高尚な習い事を高い金をかけて習わせる(子の身についてはいなかったりする)、学歴信仰が甚だしい、などなど。あなるほど、ハビトゥスの涵養のために四苦八苦しておるのだな、と思ったわけです。いや、貧困そのものを目の当たりにすることも多かれども、文化資本の貧困とはそういう意味だったのか、という気がした。多感な時期に同じ趣味というか指向性をもつ知己がおらず苦しかったことも思い出した。

オススメ10選にいれたい。

 

2.触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか(デイヴィッド・J.リンデン)

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

 

誕生日のとき、人におすすめされたので借りてきて読みました。書き方がおもしろかったです 神経科学の本なんですが皮膚知覚に関して結構面白いことが書かれていました。A線維だのC線維だのの話はわたしはちょっとしか知らんのですが、脊損患者でも迷走神経使って感覚起きることあるよ!みたいなのとか、感覚を取り扱う人間としては知っておきたいことだったので話半分に(すみません)ぱら読み。

あと、「陰部で点字は読めない」っていうくだりが爆笑でした。試したんかーい!という。

 

3.大脱出―健康、お金、格差の起原(アンガス・ディートン)

大脱出――健康、お金、格差の起原

大脱出――健康、お金、格差の起原

 

 めっちゃいい本でした! これの熱狂度というか自分の中でのオススメ度合いは、ドーキンスの『利己的な遺伝子』、シッダールタ・ムカジーの『病の皇帝』、ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に並ぶ。

ミクロ経済学のひとなんですが、貧困の経済学というより「格差の」経済学という感じです。公衆衛生に携わる際に是非お読みいただいて損はないと思います。書き口がひじょうにわかりやすいのは著者のおかげか訳者のおかげか。医療職の方に是非手に取っていただきたい。

 

4.言語行為の現象学野家啓一

言語行為の現象学

言語行為の現象学

 

伝達的会話は、常に話者と聴者の共同作業なのであり、話者はあくまでも語る主体でありつつ、同時に語りかけられる聴者の役柄を間接的に引き受けている。さらに、対話の進行の中では、私と他者とは話者と聴者の役柄を交互に引き受けねばならない。ー野家啓一『言語行為の現象学

わたしが「対話」を重視しつつも苦手とする理由がよく書かれていて楽しかったです。

読んでるとなんというか象徴の曖昧さとかコミュニケーションの限定において言語って相当難しいんだなと思わざるを得ないしやっぱり臨床そのものが人の機微に疎い人間には難しいだろうと思えてきます。でも、技術的な体得とか知識の集積によってそれも可能やと思う。自然に行えてしまうと、表情の読み取りや違和感が言語化されることは少ないんですよ。なぜその徴候をそうだと読み取ったのか、という文脈が表にでなければそれが科学に置き換わってくれず、いつまでも綺麗事のままなのですよ。それは歯がゆいので、苦労して技術的にコミュニケーションを分解して要素の集積にすることでようやく科学への転換が可能になるんじゃないかという気がします。そしてそれを得意とするのは、『自然に』コミュニケーションをできない人のほうだという気がしてくる。

 

5.大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー(ジョゼフ・ギース)

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー (講談社学術文庫)

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー (講談社学術文庫)

 

父が持っていたのをパクってしまった(わけではないのですが、面白そうだねといったら自分が読む前に貸してくれた)。中世、世界史でもパッとしないのは複雑すぎるからなんですけど、士農工商でいうところのうしろ3つについて実に充実して書かれていておもしろいです 誤った科学もまた科学の基礎にはなるし、機械のエッセンスがつまっています。

科学の揺籃の時期というのは本当に面白い。ルネサンスなんていいますが、ルネサンス"前夜"がこんなに学術的に豊かであったことを示してくれる本はあまりなかったりします。世界史の資料集ばりに楽しい。ただ、文体は結構読みにくいです。

 

6.ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?(ダニエル・カーネマン)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

人にお勧めされて読みました。下巻が借りられずまだ上巻だけしか読めていないのですが、面白かったです。イツァーク・ギルボアの『意思決定理論入門』を、さらに平易にかつウィットに富んだ解説にしたような感じだ。著者は心理学者だが経済学のノーベル賞受賞者で、意思決定論の分野のほにゃほにゃがほにゃほにゃで受賞されたとのこと

なによりアトゥール・ガワンデやアントニー・ダマシオの名前が出てきていくつか本を具体的にあげてくれていたのが自分にはとても良かった 経済学における意思決定ってまだ自分には縁遠く感じられたりするのだが、臨床における直感の否定のくだりとか実に良かった。簡単に噛み砕いてもらった本を読んでわかった気になるのはご法度だとは思うけど、その分野へのやる気がへしょげそうなときに『おもしろそう!』っていう気持ちを思い起こさせてくれる本っていいな

 

7.イスラームから見た「世界史」(タミム・アンサーリー)

イスラームから見た「世界史」

イスラームから見た「世界史」

 

地理的な中東と、イスラム教の変遷についての本。世界史やっていると、中国またはヨーロッパ主体になりがちなのですがとくにヨーロッパ主体でやっても右のほうの土地の伸縮が気になっていた人間にはたいへん嬉しい本でした。ゲームならアサシンクリード、本なら夢枕獏の『シナン』や梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』、漫画なら『乙嫁物語』。そしてわたしの家にあるトルコランプ。文化にしろ建築にしろ宗教にしろ、そして現代経済にしろ、気になるものが多くてですね。特にイスラム圏といえば「祈り」の身体性や非代替性(代わりに「祈る」職業の人はいない)など、面白い文化の違いが読めます。中東諸問題なんかにも食い込む1冊。

 

8.サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系(赤瀬達三)

サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系

サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系

 

記号が好きすぎるオタクなので読みました。

都市計画系とモノのデザインで大きく趨勢が異なることに違和感があったけど、案内のデザインは明らかに前者よりなのでわたしはとても好きですね。建築というより空間における認知・知覚に興味があるのでこの本は本当に読んでいて面白かったです。記号論理学とかは結構自分の中では形而上っぽくてとっつきにくかったんですが案内のデザインは形而下なので大好きです。見て歩き美しさに感嘆し、実際に導かれて次のポイントに到達するのは面白いものです。D.A.ノーマンの『誰のためのデザイン?』と同じくらいオススメですが高いのが玉に瑕

超絶コアなオススメ10選にいれたい。

 

9.21世紀の不平等(アンソニー・B・アトキンソン

21世紀の不平等

21世紀の不平等

 

例の流行ったピケティ後で結構信用できそうな本だったので読んだ マクロ経済学的な数式はほぼ省いて書かれているのだが統計はしっかり図示されていてよい。貧困の経済学に関してジョン・ロールズアマルティア・セン、ルース・リスター、セルジュ・ポーガム各1冊ずつくらいしか読んでないのでまあまあ厳しいものがあったのだけど、経済の政策的観点をよく指摘していてわからないなりに楽しく読みました

経済学の徒でなくても読めて、かつ法と経済学に近く、経済の理念とか仕組みというよりこれまでの政策により各国経済がどのように影響を受けてきたかについての検討という感じでなんというかユートピア感もディストピア感もないのが真面目なのである。貧困に関しては哲学も宗教も社会学もともすれば理想論に走りがちなのを本書は現実的な課題として(漸次的に)解決策または提案を出していたのがアホにはありがたかったです

 

10.宗教とは何か(テリー・イーグルトン)

宗教とは何か

宗教とは何か

 

「宗教とは何か」っていうより「宗教批判とは何か」・・・っていう感じの本でした。

ここまで痛烈なドーキンス批判初めて見た。ダニエル・C・デネットも『解明される宗教』で俎上にあげてはいたけど、積極的というかもはや攻撃的な無神論を他人に強要するのってほんと毒でしかない。わたしは勿論科学の徒なのでそれに従うわけやけど、別に神学というか宗教全般には別に相克するもんではないと思っている。だからデネットの論を信用するし、むしろイーグルトンのこの本は無神論者憎しで書かれすぎている感もあると認める。つまり今この時期だから読めるわけであって、数年後ないし数十年後には価値がなくなると信じたい。

読書について―1年間の読了記

年度が終わる、まだ本を読んでいる。

 

1年のおわりに

この1年間で読んだ本が200冊を超えた。226冊。厳密にいうなら、あと2-3日ほどの間にもう2冊くらい読む気がするのだけれど、まあ誤差の範囲内ということでかまわないだろう。専門書や雑誌を除いてこの数字なので、よく読んだほうといえばそうなのかもしれない。

なぜこんなに本を読んだのか未だによくわからない。自分は先生が欲しかった。学友が欲しかった。けれどそれが叶わなかったために、ひとまず安価で効率のよい、読書にそれを求めたのだった。なので、読書によって可能なことや、読書行為そのものから得られたエッセンス、はんたいに読書によって不可能なことや、読書の非効率性についての指摘をつらつら書いていこうかと思う。例によってあまりまとまりがない文章になることをお許しいただきたい。

 

読書するという身体行為について

読書というのは自分が現存在する世界をやわらかく拒絶し、本の世界と交流することだと思う。
勿論、声をかけられて目をあげたり、傍らにおいたスマートフォンに目をやれば、いつでもその世界から脱出できる。でも、それまでは、自分の心は本に奪われており、会話は決して脳みそから漏れ出ることがない。
だから、本を読んでいるあいだは「ひとり」でいながらにして、「著者」と交わることができる。これは身体状況と精神状況の前提であって、いまさら私が書くようなことでもない。いろんなひとがこれについて指摘している。

では私の身体状況がどうであったかというと、日々臨床で働きながら、隙間の時間に本を読んだ。でも、無理はしたくなかったので、仕事の休憩時間にはほとんど読んでいない。くたくただったのだ。仕事が終わっても仕事のことがなかなか頭から離れなくて、強制的に心の注意を逸らすために本を読んでいたといっても過言ではない。
本は冊数ではないといえ、その現実逃避のちからたるや苛烈ともいえる勢いだったので、朝から夕方まで働いたあとにスターバックスで3-4冊読んだこともあった。夜勤明けに同じようなことをしたときもある。

京都の夏はとても暑く、冬は寒い。安普請の家に住んでいるとどうしても気温の影響を受けやすく、かつ狭い空間にひとりで長時間いたくなかった。
そして人と時間を過ごすとどうしてもとても気を遣ってしまう自分にとってはあいた時間を誰かと過ごすよりは、ひとりになって静かに本を読むほうがよかった。

そういうわけで、なかば「外に出かけるけど何もしたくないときの口実」としても読書は役に立った。

 

本を読むことによって得られるエッセンスとはなんだろう

226冊、とはいってみてもそれぞれの本にかけた時間はまったく違う。1か月かけて読んだ本もあれば、ものの数十分で読み終えてしまったものもある。
本を読むとは単純に情報を得るのみならず、同時に情報処理を行っているし、さらに並行してイメージングをし、なおかつ本を読むという自分の時間が流れるかたわらで世界の時間も流れているので、晩御飯とか空腹とかコーヒーの飲みすぎについて気にしなければならない。言いたいことがあったらそばのスマートフォンに触りたくなるときもあるかもしれない。

そういった雑多な情報を処理しながら読書をすることで、自分はいったいなにを得ていたのだろう。

まず、1年かける前に、徐々に自分の読書スタイルに気が付いた。
それは速読法のような安直な解ではなく、もともと自分が本に求めていた要素が実際の身体利用と情報処理に適用された結果だとも思う。

わたしが読んでいた本はほとんどが小説ではなかった。し、哲学の本が多く、かつ解説本ではなくたとえばメルロ=ポンティならメルロ=ポンティ自身の著作の訳本を読んでいた。とにかく難解で、正直さっぱりわからなかった。最初からさっぱりわからない本も食わず嫌いせずに読むつもりでいたので当たり前といえばそうなのだが、そういう本のたぐいは、時間をかけて読んでも「わからない」のである。日本語に再構成されているのだから日本語として理解できるのだが、その日本語が何を意味していて、文中にどういう影響を及ぼしているのか本当にさっぱりわからないのだ。
さっぱりわからないことについて拘泥してもあまり意味はないと思い、そのまま読む。そのまま読むと、あ、これについては経験があるぞ、ということやこういうことの言い換えだろうか、と自分の中で理解が生まれてくる。なので、語彙のいくつかを自分の頭の中にヒットさせながらそのまま次の文に進むことであとから前の文章を思い出して解釈したりするのだ。でも、1章まるごと読んでもわからないときもある。むしろジル・ドゥルーズジャック・デリダの本を読んでいると1冊まるごと読み終わると「読んでいる間はとても楽しかったのに、読み終わると何が書いてあったのかさっぱり口からでてこない」みたいなことがとても多かった。わたしがアホである所以かもしれない。

1冊の本を読んでいるとその本の中に大量の引用文献があることに気づく。
すべてを読むことは不可能だし、また趣味の読書なのに苦行をする必要はないので、引用部分について気になる本をさらに探すことになる。こうして無限の読書の広がりを作るわけである。

 

読書によって得られないものはなんだろう

読書によって得られないもの、それは実体験と現実の時間(対話)、あと鍛錬(勉強)だと思う。
旅行が好きなひとの多い職場にいるので、なぜみんな旅行に行くのか、と思う。本を読めば、ほんとうに多くのことを実に効率的に吸収できる。感覚のなかで、渋谷のスクランブル交差点に立つこともできるし、函館の夜景を眺めることもできる。
けど、実際の目で見た感覚というのは、そこに立って、風を感じながら自分の耳で雑踏を聴き、人々の会話を聴き、クラクションを鬱陶しく思い、肩を他人にぶつけられないとわからない。映画を観ればある程度その感覚は手に入れられるかもしれないが、それでも肌の感覚として知覚することができるのはそこに立つときだけだ。
実体験だけは、読書では決して手に入れることができない。

もうひとつの「対話」とは、生きている人間とやりとりすることだ。
本にある言葉はすでに誰かの頭の中で処理された記号であるので、もう誰かの咀嚼を受けたものだ。あとは自分の口にいれて、消化するだけでいい。勿論難消化物であることもあるけれど、すでに咀嚼の必要がなかったりする。
ところが人との対話は、目の前の食材で「何をつくる?」ということからはじまる。だから、著者との対話とちがって「いまここ」を感じることができる。先の実体験の延長みたいなものだ。
わたしはこれについてはいつも臨床でいやというほど取りこぼしているので、読書によって記号化を続けている。読書を唯一無二の趣味にすることをわたしは決しておすすめしないけれど、その理由は「実体験の欠如」がそこに存在するからだ。

最後に勉強。勉強というか、手を動かすことやそれを身体知のレベルにまで落とし込むこと。
これは読書によっては得られなかった(少なくとも私が読むのに選んだような本では)。
なにかを「わかった気になる」のは、前項の対話に欠如するゆえに誤謬を指摘される機会がないため、読書をすることが勉強であるととらえるには無理がある。
ゆえに読書のみを趣味とすることや、本をたくさん読んで「博識になった」ことが、実際に自分が賢くなったと錯覚することをあまりおすすめしない。

200冊以上読んで言うことがそれか、という感じだけど、反対だ。
たくさん読み始める前から思っていたけれども、たくさん読んでみても変わらなかった事実について確信をもって述べているに過ぎない。

 

さいごに

読書が読書を呼び、最終的に得たものは「学びたい」という欲求だった。
いや、読書は勉強にはならないことは重々承知だったので、なにを学びたいのか、なにに興味があるのかというものを効率的に知りたくて読書した。

結局、読んでいた本は小説を除けば
公共哲学/都市論/建築デザイン/心理学(認知心理・神経科学)/宗教学/文化人類学/経済学(貧困に関する経済学・社会学・哲学を含む)・意思決定理論/記号学・論理学
くらいに分類できる。
数百冊読んでまだ変わらなかったということは興味があるということだ。あとは行動に移すだけだ。

というわけで4月から放送大学の学生になります。
半年前は書類不備とかいうまさかの「「「放送大学に落ちる」」」という案件をやらかしましたが、今回は大丈夫でした。おめでとうございました。

映画感想『ネオン・デーモン』『ロブスター』

ネオン・デーモン


映画『ネオン・デーモン』予告編

 

監督とか役者とか演出が誰かとかわたくしあんまり覚えることができないですしネタバレも勿論しません。なんというかアングラカルチャー系の映画ですが、好きでした。60席しかない映画館の、10席くらいしか埋まらない中でみましたよ。

 

全編通して、なんというかシュルレアリスム的世界観があって自分はとっても好きでした。音楽もストーリーも必要最小限しかない、物語というよりは写真/絵画のような映画。

 

映像の美しさ・人間の美しさはかなり近接距離のものですが、「ムード」「空間」の演出がものすごくいい。暗闇の中で金粉を少女のうなじに塗り付けるシーンとか、ショーでウォーキングするシーンとか。

 

似ているなあと少し思ったのは、邦画の『ヘルタースケルター』ですかね。でもあちらは人情や心性みたいなものによりウェットに肉薄しようとしていたのに対して、こちらはあくまで構造美とかを追求したような。ヘルタースケルターは良くも悪くも猥雑な感じで、俗悪でかわいらしいんですよね。こっちはもっとヴィヴィッドな感じ。

個人的には最後の撮影シーンがとても好きでした。あとエンドロールの、肌にスパンコールを散らしていく撮影。

写真を撮る人なら、それも人間を撮る人なら楽しみがわかるような気がします。

万人にはまったくお勧めできない映画ではありますが、私は結構好きでした。

 

 

ロブスター


映画『ロブスター』予告編

 

人間は必ず誰かとつがいでいなければならないのだろうか。そうでなければ、必ずひとりでいなければならないのだろうか?・・・とか、考えさせられます。

 

予告編には皮肉で面白い、みたいなことを描かれていますがふつうにいい映画だと思います。ただ人は選ぶ。

映像がとにかく美しいです。最近の映画だからとかでなくて、人物を美しく撮るすべが全部詰まっているというか。些細なシーンでも光の当たり方とかよく考えられているのです。先述のネオン・デーモンは美がテーマなのでさもありなんといった感じなのですけれどもね。スローモーションになるシーンとかちょっと面白かったりするんですけど、映像が美しすぎてやや笑うのも忘れます。というか何度も言いますがこの映画、全然笑えないです。誰だ笑ったやつは!みたいな映画。

 

主人公が男性だからか、男性性のありかた/男性の性のありかたみたいなものも垣間見えてきます。女性性に関しては些か放置気味ですが、この映画においてはそんなことは放っておいてよいでしょう(ウーマンリブな映画はいまどき溢れすぎていて食傷気味)。

 

全編通して通底されている『恋に落ちなければならない』という脅迫は、ある種現代社会への強烈な皮肉だなあと思います。もちろんそれを指して作られているのでしょうけれど、夫婦円満でなくてはならないとかセックスをしなければならないとか、嘘があってはならないとか。嘘があっちゃいけないんですか?相手や自分を守るための嘘であっても?という疑問がすぐわいてくるようにできている。

そんな強制された状態で恋愛できるかっていうと、まあ、当然できませんわな。

 

でも問題はその先にもあって、『独りを選んだらずっと独りでいなければならない』。これ、今の社会にもわりとあるんでないかなあ、という気がします。

つまり恋愛を楽しむ人類と楽しまない人類で二分されていて、その間を自由にいったりきたりするのが非常に窮屈なのですよ。映画本編とはまったくかけ離れますが、『非モテ』『非リア』って集まりたがるじゃないですか。揶揄であっても、カップルが成就しようものなら村八分にしてみたり。それが映画本編のなかではもっと強烈なかたちで出てくるのですけど、そういった雰囲気、そういえば現代社会にもあるんじゃないかなあとふと思ったんです。

 

あと、偽装夫婦のシーンで出てくるホームセンターのシーンがすっごく好きでした。ものすごく気を遣って生活用品を購入するのですが、街に出ていくのにこれくらいの精神的負担を負って出てきている人っているんじゃないかな、という気持ちにさせられました。この気持ちはうまく言い表せないのですが、「よそに出ていてもおかしくない人間」を装いながら生活の用を足すのがめちゃくちゃハードルの高い時期が自分にはかつてあって、そのことを思い出したんです。野生動物をスーパーマーケットに連れてくるみたいな感じ。おそるおそる周囲をうかがいながら生活する。

 

それでもひとりではいられないときもある

映画を観ての感想なのでこれはなんともいえないのですが、なにせ勧めてくれたのがわたしの姉だったので色々思うところはありました。なるほど、好きそうだな、と。

 

わたしたちはいつも「社会に所属していなければならない」し、そうでなければ安定できないようにできています。映画みたいな理不尽なルールは徹底されていないだけで、真綿のように首を絞められている人たちもいるわけです。

夫婦でなくてもいい、恋人にならなくてもいい、ほんとうに気の合うひとを必要とするあいだだけ一緒にいることも可能だろうなあと日々自分は思っているので、まさにそれを皮肉のかたちで描き切ってみせた「ロブスター」は自分のなかでは名作(迷作?)となりました。