毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

夜は短し歩けよ乙女

「あ、これはいい」というのは、森見登美彦の『四畳半神話体系』がアニメになったときから思っていました。あの空間に関する絶妙な感覚は映画では絶対にできないし、テンポ感も小説そのままだったから。今回観に行く機会があったのをとても嬉しく思います。

ちなみに、面白そうなので新海誠監督の『君の名は。』と、悉く対比させていこうと思います。

 

 

アニメーションについて

比喩の表現が非常によくできていました。デフォルメがじょうずなので、言葉にしてみると大げさな内容がそのまま絵になって動く感じです。

君の名は。』に、デフォルメはありません。映画のように、知覚に忠実に描かれている。それが本物と感じられるように。反対に、『夜は短し~』では、実際アニメーション化されたものが目に見えることは決してないのだけども、比喩として言葉によくしていることがそのまま使われているのです。

 

あと、本編そのものについて、図式化されると確かに宝ヶ池は御所からみて鬼門だったなあ・・・とか(岩倉実相院のあるあたり)、鬼門だの疫病神(李白そのもの)とか色々民俗的なことについて考えることが多かったです。原作を読んだときには、李白老人についてそこまでつよく意識した覚えはないのですが。

 

知覚と抽象概念の取り扱いについて

アニメの途中で「ねこぢる草」を思い出しました。サブカルの中でもアングラよりのものがお好きな方はよくご存じだと思うのですが、シュールで複雑な世界観をアニメーションにしている作家の方です。ちなみにすでに故人です。そのことでも有名なんですけれど。

君の名は。』と較べることができてしまうのでどうしてもやってしまうのですが、夜は短しでは「自分の頭の中での出来事」がよく絵になります。乙女の胃のなかが温まるのもそうですが、「私(作中では先輩)」の体験・知覚世界がそのままアニメになります。これは実は映画では絶対にできないことで、だからこそアニメを観るときにはすごく期待しているところだったりします。とてもよかった。例えば脳内会議で「イド(エス)」の声、「スーパーエゴ」の声、などなどいろんな声が聞こえるシーンがあるんですけど、まさに自分自身の心の中って常にそういう状態なんですよね。一歩踏み出すにもとても勇気がいって、言葉一つひねり出すのに何年もかかったりする状態。本作に出てくる人はみんなそういう「内面世界」が豊かなんです。

ちなみにこれを『君の名は。』とか、新海監督の他の作品(わたしは『秒速5センチメートル』と『ほしのこえ』『言の葉の庭』くらいしか観ていませんが)に当てはめると、それらは「心象風景」として表現されます。雪の冷たさ、影の暗さ、緑の瑞々しさのように。あくまで「視覚世界」へのこだわりがつよい。そこに心象風景を投影していくかたちで話が進みますし、言葉はとても少ない。しゃべったとしても、本質的なことは観る手に委ねられています。ところが、夜は短しでは、抽象的な(むしろ前衛的な)絵画のごとき世界観となってキャラクターをつぶしたりこねくりまわしたりもてあそんだりと、人間の心の中の七転八倒ぶりをそのまま描いてしまうわけです。私は、せっかくアニメなのにこれをやらないのはもったいないって思ってしまう。

 

空間・時間の感覚について

李白が孤独に耐える時間がありましたね。あの表現もとても好きで、いや、詭弁論部OB.OG会でも出てきましたが、「時計がこんなにゆっくり進んでいる」「私たちにはもう時間がない」という感覚、あまねくいろんな人々と交流していなければ得られない概念だと私は思っています。

つい嬉しくて哲学の話になってしまうのですが、ベルクソンは「物質と記憶」にて、時間とは空間的なものであると述べました。それは時間というのが実際には計測する際に時計の秒針の動きのように、空間を測ることによってしか共通の感覚を持つことができないみたいなのを私自身は著作を読んでも理解できず土屋教授の本から学んだのですが。

日々人間を相手に仕事をしていると、おのおの物事のとらえ方も、感覚も、ストレスへの対処法も、死やそれに準ずるたいへんな危機状態に対する心理もほんっっとうにそれぞれ違うものであることをしみじみ感じます。「自分以外の人が何を感じどう過ごしているか知りたい」という相互的な欲求が物語の最後にあったのは、正直表面上の言葉のやりとりなんかよりずっと大切だと思う。

村上春樹の小説なんかにもよく言われることですが(あれはあれで私はとても好き)、物語には人と人とのやりとりがよくでてくるのに気持ちが通っていないシーンがありますよね。大体のアニメを観ていても、違う概念をすり合わせて納得するシーンだとか、すれ違ってどうしてもわかりあえない困難には直面していなかったりして悩んでしまうんですよ。事物についてのすれ違いはあっても、観念や認識についてのすれ違いをそれそのものでわかりあうことの困難に日々直面していると、なんというかそう簡単にわかられてたまるかという卑屈な気持ちになってしまうのです。

勿論、物語の中でくらいそうあって欲しいという気持ちもわからなくはないですが、少なくともこのアニメを作ったひとはそういうジレンマが表現できるのだなあと思って嬉しくなりました。

 

圧倒的な文字数というか言葉の数

原作が小説ですから当たり前といえば当たり前なのですが、言葉の密度がものすごく高いです。これ、森見作品に慣れていない人が聞くと「字幕もない日本語映画なのに理解できない」ということになりかねません。というか、日常会話で使用しない(私は使ってよく怒られる)言葉が頻発するのでこれ普段本読まない層は理解できるのか・・・?と思うなどしました。まあ数語理解できなかったところで面白さは損なわれないでしょうが。

 

ところで話は変わりますが洋画を吹き替えで観る層っていますけど、字幕を読むという行為も実は訓練が必要なんですよね。字幕の切り替わりは結構早いので、幼いころから洋画を字幕で観たり、あるいは後付けで訓練しないとついていけないのだそうです。

 

さてさて元に戻ります。

あとは、『君の名は。』が絵画的・印象的な映画だとすれば、『夜は短し~』は戯曲(とくに喜劇)的だなあとも思いました。理由は今までにまとめたとおりなのですけれど。

 

とりあえず忘れないうちに投下しておきます。また思い出したら何か付け足すのかもしれないし付け足さないのかもしれない。

100冊読破 3周目(31-40)

1.日本のメリトクラシー 増補版: 構造と心性(竹内洋

日本のメリトクラシー 増補版: 構造と心性
 

日本の学歴社会についての構造の解析。随分真面目な本(というか学位論文らしい)なのだけど、よく話題になっていることについての議論なので大変面白く感じられつい読み切ってしまった。『差異と欲望』を読んだときには非-数値化された教養の構造についてだったものが、明文化されている。職歴や会社内での階級・昇進速度などなどの図示のほか、『職業』ではなく『職場』の選択志向性などといったことも最後の方には話題になっていて、ああ確かにいまはそういう時代であるなあと思ったりした。1995年の増補版なのだけど今だからこそ読みたくもある。

 

2.「原因と結果」の経済学―データから真実を見抜く思考法(中室牧子)

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

 

統計疎いので専門用語が出てくると参ってしまうことが多かったのだけど、こうやって例を出しつつ説明されると興味をもててよいです ただ統計の方法や手続きとかを『解説』したものであって自分で組み立てられるようになるかというとまた別問題なので、これを元手に勉強に興味もってね!という感じの本。

アンガス・ディートンの『大脱出―健康・お金・格差の起源』とかアンソニーアトキンソン『21世紀の不平等』とか、『差異と欲望』とかを読めるのであれば必ずしも必要ではないと思います。話題が直近のニュースであるのと、ダイヤモンド社なので言葉が平易なのが魅力です。どちらかといえば、『このデータでは何ができないか』というのの参考になるかなという気がします。次は「やさしい統計」か「ダメな統計学」を是非読みたい。

 

3.ツチヤ教授の哲学講義(土屋賢二

ツチヤ教授の哲学講義

ツチヤ教授の哲学講義

 

哲学が対象とする問いについての概説。用語の解説とかは少なくて、むしろ哲学がたてる問いがなんであるのか、っていう感じです 秀逸なタイトルだったなあと思うのが「哲学は何でないか」っていうの。章のタイトルなんですけどね。

哲学の本をあれこれ読んでからこれに戻ると、けっこうおもしろいです。

 

4.〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則(ケヴィン・ケリー)

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

 

めっちゃ面白かった。経済学的でも技術優先的でもなく、倫理でもなく芸術でもない。現状の記載がこんなにわくわくすることってあまりない。ぜひおすすめ10冊にいれたい。実は図書館でもいっときおすすめ本の筆頭に挙がっていた。『いま、世界の哲学者が考えていること』のうちのITとかバイオテクノロジーに焦点をあてた感じに近い。そしてなにより結語がよかった。結構この本おかたいところもあるんだが、遊び心もふんだんにある。ゲームのリアリティの変容なんかもおもしろい。最近になってシンギュラリティという言葉がえらい一人歩きをしている感じがあるが、そもそも時代の全容を肌身で感じていれば小さな常にシンギュラリティは連続的に、また局所的に繰り返されてきている 本書はそうした見解を示すものだったので私はわりと好きになった。

 

5.ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか?(ダニエル・カーネマン)

ファスト&スロー (下)

ファスト&スロー (下)

 

上巻を読んでの続きなんですが相変わらず面白かったです。アンガス・ディートンの貧困の経済学にも触れつつ、幸福(効用)についての意志決定をいろいろと。エコン(常に合理的決定を下す存在)でない我々が面白いのは、直観的な選択それそのものを楽しめるということだと思う。間違うということがわかっていればそれでいい。

経済学における意思決定というのはつくづく結構まじめに(不真面目な社会学なんかよりはずっと真面目に)人間の幸福を前提の目標としているのだなあということ。「死にゆく患者と、どう話すか」を読むともっとそう思います。意思決定をすることは難しい。統計的な、あるいは数学的な正しさと、実体験は違う。実体験のなかにも、満足のいくものと、苦痛を伴って耐えられないものがある。「数学的に正しい選択」をして、自分が納得できるかどうかはやはり別なのだろうとも思う。

 

6.死にゆく患者と、どう話すか(國頭英夫)

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

 

看護大学のコミュニケーションのゼミで行われた講義録。

ふつうに一般人が読んでも面白いと思ったので、100冊読破に入れてしまいました。学生らは高校を出て1年目の大学1回生。でも、先生に引きずられて気づけば思いもよらない問いをたて、それに仮説まで与することができるようになっている。

『場の倫理』といってもいいかもしれません。肉体と向き合って、生命そのものの時間を前にして、自分たちはどういう態度をとるのか?何を相手から引き出すのか。そういう考えで楽しめます。

 

7.思考の技法-直観ポンプと77の思考術(ダニエル・C・デネット

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

 

 図書館で見つけたのであーデネット!と思い手に取ったのですが大変よかった これそのものは結構難しいので、『いま、世界の哲学者が考えていること』の思考内容を開陳したバージョンと捉えてもいいです。答えだけが知りたければ、各章の最後の要約だけを読んでもいいと思う。

『解明される意識』はまだ読んでいなくて、デネット氏本人の著作は『解明される宗教』しか読んだことがなかったのですが、邦訳になっていても実に活き活きとした語り口と鮮やかな切り口でなんというか読んでいて楽しい本です ゲームのような本です

認識(情報処理)/意識(現象の行為主体であること)/自由意志についてあたりが面白かったなあと思います。プログラミングに関する話も言語処理に関する話も出てくるあたりが、ウワーこのひとの本読んでヨカッタナーという感想しかでてこなくなる。無能。

私がデネット氏のこととても好きなのは、宗教にしろ情報システムにしろ進化生物学にしろ、「なにかをナンセンスだと腐すことには意味がない」という首尾一貫した主張があるところです 暫定的な解法はあくまで暫定でしかないことも、答えが出るのであれば手法は問わないことも徹底している。

 

8.生命科学の歴史―イデオロギーと合理性(ジョルジュ・カンギレム)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

 

 病の皇帝とは違って物語化していないし、すべての科学を扱うのでふつうにニュートンとか出てくるのであるがこう…なんだろう、本文中にもあったけど『イデオロギーとは事実そのものではなく発見された事実をやぶにらみするもの』っていうのよくわかる。モナドが実在したように、organ(器官)が今も生理学で使われるように、なんというかそういう概念の取り扱いが先立って実証されるというのは毎度繰り返されているから、四体液説とかも概念上不思議なものでもないんだよなあ。否定はされているし科学でもないのだが。

はじめて専門的な勉強をしはじめたころを思い出した。解剖みたいにあければわかるものはともかく、ホルモンの測定とか、実際の血流だとか、測定が難しいものの計測やらそれの治療法、どういう風に編み出したんかね、とよく思っていた。マジャンディ孔は脳脊髄液の流れ口として今も名前にある。

歴史を繙くと、今のような似非科学疑似科学?)のようなものは生まれようがないのですが、複数のイデオロギーの対立を目にしてこなかった個体が情報の取り扱いに難渋している結果といえるのかもしれない。ごく最近になるまで最大の敵はがんでも生活習慣病でもなく感染症だったのにね(今もだけど

 

9.貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス(エステル・デュフロ)

貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス

貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス

 

ファイナンスの章が簡潔で理論的に書かれているのに難しく感じるあたり、やはり自分は金融・投資関係にほんとうに疎いなとおもう

いくつか本を読んで思ったけど、最貧困(絶対的貧困)に対する支援と相対的貧困(『卓越性』の逆に相当する)に対する支援はまったく別のものだということがわかる。日本では相対的貧困に目が行きがちだけど、相対的貧困も下層は絶対的貧困に転がり落ちていく。この本がすごいところは理論ではなくて実験結果であるということ。仮説とそれに対する実証を社会実験に落とし込むことはお金も時間もかかるし結果も出しにくい。とくに所謂貧困国における実験って相当大変だったのではないだろうか。

あと貧困そのものについて考える力を貧者に返す、っていうのは確かアマルティア・センがいっていたエンパワメントだったかなあと思うんですけどそれそのものも貧困国においてはトップダウンではなく(官僚が私腹を肥やすので)NGOによってもたらされることが多いっていうの、さもありなんだった

貧者に対する保険・融資に関する話は正直自分にはちょっと難しいのだけど(福祉でなくてなぜ融資の緩和でないといけないのだろう?)、それこそ福祉で補ってしまうと財源がないのと自律性を損なうのかもしれない。自律性を養うのは容易いことではないけども。

 

10.ポストヒューマン・エシックス序説: サイバー・カルチャーの身体を問う(根村直美

これなあなんというかアンケート形式の悪さは結構前面に出ていた気がするけど、MMORPG長くやってた人間としてはすごく面白い話題だったんだ。

ゲームとの身体性の乖離、SNSにおけるコミュニケーションのありかた、いくつかのキャラクターを自分が「演じる」ことについての哲学。いいぞもっとやれという感じ。

100冊読破 3周目(21-30)

1.差異と欲望―ブルデューディスタンクシオン』を読む(石井洋二郎

差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

 

 彼らは必要性の要請によって自分が受け入れざるをえないものを『好んで』受け入れるのであって、手の届かない財に対しては『これは私たち用のものじゃない』といった言い方で、はじめから趣味の対象から除外してしまうのである。ー差異と欲望 ブルデューディスタンクシオン』を読む より

ブルデューディスタンクシオンそのものを読んでいなかったのだが、明らかに本書が原著を忠実に読み解いたひとのものであることがよく伝わってくる良書であったとおもう 例においても日本における具体的なものを挙げてくれていたので非常にわかりやすい。ディスタンクシオンそのものは『卓越性』と訳されていたが、これは本書の発刊からさらに20年以上を経て世相がやや変化している今、さらに面白く読めるのではないかなあと思う。一億総中流から一億総下流と言われて久しい(か?)し、文化資本を希求する所以がよく著されている。

私自身の話をしていいならば、この『プチブル』層において異様な雰囲気をたまに感じていた。いや、かつて田舎の学校にいたころは完全なる文化資本の困窮に辟易してはいたけれども、こうしていま街に出てくるとわざわざ後付けの文化資本を子に課す親の多さに驚いたのだ。ツイートなんかでもよくみるけれど、自身は本を読まぬのに子に本を読ませる(勿論どんな本がよいのかもわからないから人に訊く)、子に所謂高尚な習い事を高い金をかけて習わせる(子の身についてはいなかったりする)、学歴信仰が甚だしい、などなど。あなるほど、ハビトゥスの涵養のために四苦八苦しておるのだな、と思ったわけです。いや、貧困そのものを目の当たりにすることも多かれども、文化資本の貧困とはそういう意味だったのか、という気がした。多感な時期に同じ趣味というか指向性をもつ知己がおらず苦しかったことも思い出した。

オススメ10選にいれたい。

 

2.触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか(デイヴィッド・J.リンデン)

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

 

誕生日のとき、人におすすめされたので借りてきて読みました。書き方がおもしろかったです 神経科学の本なんですが皮膚知覚に関して結構面白いことが書かれていました。A線維だのC線維だのの話はわたしはちょっとしか知らんのですが、脊損患者でも迷走神経使って感覚起きることあるよ!みたいなのとか、感覚を取り扱う人間としては知っておきたいことだったので話半分に(すみません)ぱら読み。

あと、「陰部で点字は読めない」っていうくだりが爆笑でした。試したんかーい!という。

 

3.大脱出―健康、お金、格差の起原(アンガス・ディートン)

大脱出――健康、お金、格差の起原

大脱出――健康、お金、格差の起原

 

 めっちゃいい本でした! これの熱狂度というか自分の中でのオススメ度合いは、ドーキンスの『利己的な遺伝子』、シッダールタ・ムカジーの『病の皇帝』、ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に並ぶ。

ミクロ経済学のひとなんですが、貧困の経済学というより「格差の」経済学という感じです。公衆衛生に携わる際に是非お読みいただいて損はないと思います。書き口がひじょうにわかりやすいのは著者のおかげか訳者のおかげか。医療職の方に是非手に取っていただきたい。

 

4.言語行為の現象学野家啓一

言語行為の現象学

言語行為の現象学

 

伝達的会話は、常に話者と聴者の共同作業なのであり、話者はあくまでも語る主体でありつつ、同時に語りかけられる聴者の役柄を間接的に引き受けている。さらに、対話の進行の中では、私と他者とは話者と聴者の役柄を交互に引き受けねばならない。ー野家啓一『言語行為の現象学

わたしが「対話」を重視しつつも苦手とする理由がよく書かれていて楽しかったです。

読んでるとなんというか象徴の曖昧さとかコミュニケーションの限定において言語って相当難しいんだなと思わざるを得ないしやっぱり臨床そのものが人の機微に疎い人間には難しいだろうと思えてきます。でも、技術的な体得とか知識の集積によってそれも可能やと思う。自然に行えてしまうと、表情の読み取りや違和感が言語化されることは少ないんですよ。なぜその徴候をそうだと読み取ったのか、という文脈が表にでなければそれが科学に置き換わってくれず、いつまでも綺麗事のままなのですよ。それは歯がゆいので、苦労して技術的にコミュニケーションを分解して要素の集積にすることでようやく科学への転換が可能になるんじゃないかという気がします。そしてそれを得意とするのは、『自然に』コミュニケーションをできない人のほうだという気がしてくる。

 

5.大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー(ジョゼフ・ギース)

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー (講談社学術文庫)

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー (講談社学術文庫)

 

父が持っていたのをパクってしまった(わけではないのですが、面白そうだねといったら自分が読む前に貸してくれた)。中世、世界史でもパッとしないのは複雑すぎるからなんですけど、士農工商でいうところのうしろ3つについて実に充実して書かれていておもしろいです 誤った科学もまた科学の基礎にはなるし、機械のエッセンスがつまっています。

科学の揺籃の時期というのは本当に面白い。ルネサンスなんていいますが、ルネサンス"前夜"がこんなに学術的に豊かであったことを示してくれる本はあまりなかったりします。世界史の資料集ばりに楽しい。ただ、文体は結構読みにくいです。

 

6.ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?(ダニエル・カーネマン)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

人にお勧めされて読みました。下巻が借りられずまだ上巻だけしか読めていないのですが、面白かったです。イツァーク・ギルボアの『意思決定理論入門』を、さらに平易にかつウィットに富んだ解説にしたような感じだ。著者は心理学者だが経済学のノーベル賞受賞者で、意思決定論の分野のほにゃほにゃがほにゃほにゃで受賞されたとのこと

なによりアトゥール・ガワンデやアントニー・ダマシオの名前が出てきていくつか本を具体的にあげてくれていたのが自分にはとても良かった 経済学における意思決定ってまだ自分には縁遠く感じられたりするのだが、臨床における直感の否定のくだりとか実に良かった。簡単に噛み砕いてもらった本を読んでわかった気になるのはご法度だとは思うけど、その分野へのやる気がへしょげそうなときに『おもしろそう!』っていう気持ちを思い起こさせてくれる本っていいな

 

7.イスラームから見た「世界史」(タミム・アンサーリー)

イスラームから見た「世界史」

イスラームから見た「世界史」

 

地理的な中東と、イスラム教の変遷についての本。世界史やっていると、中国またはヨーロッパ主体になりがちなのですがとくにヨーロッパ主体でやっても右のほうの土地の伸縮が気になっていた人間にはたいへん嬉しい本でした。ゲームならアサシンクリード、本なら夢枕獏の『シナン』や梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』、漫画なら『乙嫁物語』。そしてわたしの家にあるトルコランプ。文化にしろ建築にしろ宗教にしろ、そして現代経済にしろ、気になるものが多くてですね。特にイスラム圏といえば「祈り」の身体性や非代替性(代わりに「祈る」職業の人はいない)など、面白い文化の違いが読めます。中東諸問題なんかにも食い込む1冊。

 

8.サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系(赤瀬達三)

サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系

サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系

 

記号が好きすぎるオタクなので読みました。

都市計画系とモノのデザインで大きく趨勢が異なることに違和感があったけど、案内のデザインは明らかに前者よりなのでわたしはとても好きですね。建築というより空間における認知・知覚に興味があるのでこの本は本当に読んでいて面白かったです。記号論理学とかは結構自分の中では形而上っぽくてとっつきにくかったんですが案内のデザインは形而下なので大好きです。見て歩き美しさに感嘆し、実際に導かれて次のポイントに到達するのは面白いものです。D.A.ノーマンの『誰のためのデザイン?』と同じくらいオススメですが高いのが玉に瑕

超絶コアなオススメ10選にいれたい。

 

9.21世紀の不平等(アンソニー・B・アトキンソン

21世紀の不平等

21世紀の不平等

 

例の流行ったピケティ後で結構信用できそうな本だったので読んだ マクロ経済学的な数式はほぼ省いて書かれているのだが統計はしっかり図示されていてよい。貧困の経済学に関してジョン・ロールズアマルティア・セン、ルース・リスター、セルジュ・ポーガム各1冊ずつくらいしか読んでないのでまあまあ厳しいものがあったのだけど、経済の政策的観点をよく指摘していてわからないなりに楽しく読みました

経済学の徒でなくても読めて、かつ法と経済学に近く、経済の理念とか仕組みというよりこれまでの政策により各国経済がどのように影響を受けてきたかについての検討という感じでなんというかユートピア感もディストピア感もないのが真面目なのである。貧困に関しては哲学も宗教も社会学もともすれば理想論に走りがちなのを本書は現実的な課題として(漸次的に)解決策または提案を出していたのがアホにはありがたかったです

 

10.宗教とは何か(テリー・イーグルトン)

宗教とは何か

宗教とは何か

 

「宗教とは何か」っていうより「宗教批判とは何か」・・・っていう感じの本でした。

ここまで痛烈なドーキンス批判初めて見た。ダニエル・C・デネットも『解明される宗教』で俎上にあげてはいたけど、積極的というかもはや攻撃的な無神論を他人に強要するのってほんと毒でしかない。わたしは勿論科学の徒なのでそれに従うわけやけど、別に神学というか宗教全般には別に相克するもんではないと思っている。だからデネットの論を信用するし、むしろイーグルトンのこの本は無神論者憎しで書かれすぎている感もあると認める。つまり今この時期だから読めるわけであって、数年後ないし数十年後には価値がなくなると信じたい。

読書について―1年間の読了記

年度が終わる、まだ本を読んでいる。

 

1年のおわりに

この1年間で読んだ本が200冊を超えた。226冊。厳密にいうなら、あと2-3日ほどの間にもう2冊くらい読む気がするのだけれど、まあ誤差の範囲内ということでかまわないだろう。専門書や雑誌を除いてこの数字なので、よく読んだほうといえばそうなのかもしれない。

なぜこんなに本を読んだのか未だによくわからない。自分は先生が欲しかった。学友が欲しかった。けれどそれが叶わなかったために、ひとまず安価で効率のよい、読書にそれを求めたのだった。なので、読書によって可能なことや、読書行為そのものから得られたエッセンス、はんたいに読書によって不可能なことや、読書の非効率性についての指摘をつらつら書いていこうかと思う。例によってあまりまとまりがない文章になることをお許しいただきたい。

 

読書するという身体行為について

読書というのは自分が現存在する世界をやわらかく拒絶し、本の世界と交流することだと思う。
勿論、声をかけられて目をあげたり、傍らにおいたスマートフォンに目をやれば、いつでもその世界から脱出できる。でも、それまでは、自分の心は本に奪われており、会話は決して脳みそから漏れ出ることがない。
だから、本を読んでいるあいだは「ひとり」でいながらにして、「著者」と交わることができる。これは身体状況と精神状況の前提であって、いまさら私が書くようなことでもない。いろんなひとがこれについて指摘している。

では私の身体状況がどうであったかというと、日々臨床で働きながら、隙間の時間に本を読んだ。でも、無理はしたくなかったので、仕事の休憩時間にはほとんど読んでいない。くたくただったのだ。仕事が終わっても仕事のことがなかなか頭から離れなくて、強制的に心の注意を逸らすために本を読んでいたといっても過言ではない。
本は冊数ではないといえ、その現実逃避のちからたるや苛烈ともいえる勢いだったので、朝から夕方まで働いたあとにスターバックスで3-4冊読んだこともあった。夜勤明けに同じようなことをしたときもある。

京都の夏はとても暑く、冬は寒い。安普請の家に住んでいるとどうしても気温の影響を受けやすく、かつ狭い空間にひとりで長時間いたくなかった。
そして人と時間を過ごすとどうしてもとても気を遣ってしまう自分にとってはあいた時間を誰かと過ごすよりは、ひとりになって静かに本を読むほうがよかった。

そういうわけで、なかば「外に出かけるけど何もしたくないときの口実」としても読書は役に立った。

 

本を読むことによって得られるエッセンスとはなんだろう

226冊、とはいってみてもそれぞれの本にかけた時間はまったく違う。1か月かけて読んだ本もあれば、ものの数十分で読み終えてしまったものもある。
本を読むとは単純に情報を得るのみならず、同時に情報処理を行っているし、さらに並行してイメージングをし、なおかつ本を読むという自分の時間が流れるかたわらで世界の時間も流れているので、晩御飯とか空腹とかコーヒーの飲みすぎについて気にしなければならない。言いたいことがあったらそばのスマートフォンに触りたくなるときもあるかもしれない。

そういった雑多な情報を処理しながら読書をすることで、自分はいったいなにを得ていたのだろう。

まず、1年かける前に、徐々に自分の読書スタイルに気が付いた。
それは速読法のような安直な解ではなく、もともと自分が本に求めていた要素が実際の身体利用と情報処理に適用された結果だとも思う。

わたしが読んでいた本はほとんどが小説ではなかった。し、哲学の本が多く、かつ解説本ではなくたとえばメルロ=ポンティならメルロ=ポンティ自身の著作の訳本を読んでいた。とにかく難解で、正直さっぱりわからなかった。最初からさっぱりわからない本も食わず嫌いせずに読むつもりでいたので当たり前といえばそうなのだが、そういう本のたぐいは、時間をかけて読んでも「わからない」のである。日本語に再構成されているのだから日本語として理解できるのだが、その日本語が何を意味していて、文中にどういう影響を及ぼしているのか本当にさっぱりわからないのだ。
さっぱりわからないことについて拘泥してもあまり意味はないと思い、そのまま読む。そのまま読むと、あ、これについては経験があるぞ、ということやこういうことの言い換えだろうか、と自分の中で理解が生まれてくる。なので、語彙のいくつかを自分の頭の中にヒットさせながらそのまま次の文に進むことであとから前の文章を思い出して解釈したりするのだ。でも、1章まるごと読んでもわからないときもある。むしろジル・ドゥルーズジャック・デリダの本を読んでいると1冊まるごと読み終わると「読んでいる間はとても楽しかったのに、読み終わると何が書いてあったのかさっぱり口からでてこない」みたいなことがとても多かった。わたしがアホである所以かもしれない。

1冊の本を読んでいるとその本の中に大量の引用文献があることに気づく。
すべてを読むことは不可能だし、また趣味の読書なのに苦行をする必要はないので、引用部分について気になる本をさらに探すことになる。こうして無限の読書の広がりを作るわけである。

 

読書によって得られないものはなんだろう

読書によって得られないもの、それは実体験と現実の時間(対話)、あと鍛錬(勉強)だと思う。
旅行が好きなひとの多い職場にいるので、なぜみんな旅行に行くのか、と思う。本を読めば、ほんとうに多くのことを実に効率的に吸収できる。感覚のなかで、渋谷のスクランブル交差点に立つこともできるし、函館の夜景を眺めることもできる。
けど、実際の目で見た感覚というのは、そこに立って、風を感じながら自分の耳で雑踏を聴き、人々の会話を聴き、クラクションを鬱陶しく思い、肩を他人にぶつけられないとわからない。映画を観ればある程度その感覚は手に入れられるかもしれないが、それでも肌の感覚として知覚することができるのはそこに立つときだけだ。
実体験だけは、読書では決して手に入れることができない。

もうひとつの「対話」とは、生きている人間とやりとりすることだ。
本にある言葉はすでに誰かの頭の中で処理された記号であるので、もう誰かの咀嚼を受けたものだ。あとは自分の口にいれて、消化するだけでいい。勿論難消化物であることもあるけれど、すでに咀嚼の必要がなかったりする。
ところが人との対話は、目の前の食材で「何をつくる?」ということからはじまる。だから、著者との対話とちがって「いまここ」を感じることができる。先の実体験の延長みたいなものだ。
わたしはこれについてはいつも臨床でいやというほど取りこぼしているので、読書によって記号化を続けている。読書を唯一無二の趣味にすることをわたしは決しておすすめしないけれど、その理由は「実体験の欠如」がそこに存在するからだ。

最後に勉強。勉強というか、手を動かすことやそれを身体知のレベルにまで落とし込むこと。
これは読書によっては得られなかった(少なくとも私が読むのに選んだような本では)。
なにかを「わかった気になる」のは、前項の対話に欠如するゆえに誤謬を指摘される機会がないため、読書をすることが勉強であるととらえるには無理がある。
ゆえに読書のみを趣味とすることや、本をたくさん読んで「博識になった」ことが、実際に自分が賢くなったと錯覚することをあまりおすすめしない。

200冊以上読んで言うことがそれか、という感じだけど、反対だ。
たくさん読み始める前から思っていたけれども、たくさん読んでみても変わらなかった事実について確信をもって述べているに過ぎない。

 

さいごに

読書が読書を呼び、最終的に得たものは「学びたい」という欲求だった。
いや、読書は勉強にはならないことは重々承知だったので、なにを学びたいのか、なにに興味があるのかというものを効率的に知りたくて読書した。

結局、読んでいた本は小説を除けば
公共哲学/都市論/建築デザイン/心理学(認知心理・神経科学)/宗教学/文化人類学/経済学(貧困に関する経済学・社会学・哲学を含む)・意思決定理論/記号学・論理学
くらいに分類できる。
数百冊読んでまだ変わらなかったということは興味があるということだ。あとは行動に移すだけだ。

というわけで4月から放送大学の学生になります。
半年前は書類不備とかいうまさかの「「「放送大学に落ちる」」」という案件をやらかしましたが、今回は大丈夫でした。おめでとうございました。

映画感想『ネオン・デーモン』『ロブスター』

ネオン・デーモン


映画『ネオン・デーモン』予告編

 

監督とか役者とか演出が誰かとかわたくしあんまり覚えることができないですしネタバレも勿論しません。なんというかアングラカルチャー系の映画ですが、好きでした。60席しかない映画館の、10席くらいしか埋まらない中でみましたよ。

 

全編通して、なんというかシュルレアリスム的世界観があって自分はとっても好きでした。音楽もストーリーも必要最小限しかない、物語というよりは写真/絵画のような映画。

 

映像の美しさ・人間の美しさはかなり近接距離のものですが、「ムード」「空間」の演出がものすごくいい。暗闇の中で金粉を少女のうなじに塗り付けるシーンとか、ショーでウォーキングするシーンとか。

 

似ているなあと少し思ったのは、邦画の『ヘルタースケルター』ですかね。でもあちらは人情や心性みたいなものによりウェットに肉薄しようとしていたのに対して、こちらはあくまで構造美とかを追求したような。ヘルタースケルターは良くも悪くも猥雑な感じで、俗悪でかわいらしいんですよね。こっちはもっとヴィヴィッドな感じ。

個人的には最後の撮影シーンがとても好きでした。あとエンドロールの、肌にスパンコールを散らしていく撮影。

写真を撮る人なら、それも人間を撮る人なら楽しみがわかるような気がします。

万人にはまったくお勧めできない映画ではありますが、私は結構好きでした。

 

 

ロブスター


映画『ロブスター』予告編

 

人間は必ず誰かとつがいでいなければならないのだろうか。そうでなければ、必ずひとりでいなければならないのだろうか?・・・とか、考えさせられます。

 

予告編には皮肉で面白い、みたいなことを描かれていますがふつうにいい映画だと思います。ただ人は選ぶ。

映像がとにかく美しいです。最近の映画だからとかでなくて、人物を美しく撮るすべが全部詰まっているというか。些細なシーンでも光の当たり方とかよく考えられているのです。先述のネオン・デーモンは美がテーマなのでさもありなんといった感じなのですけれどもね。スローモーションになるシーンとかちょっと面白かったりするんですけど、映像が美しすぎてやや笑うのも忘れます。というか何度も言いますがこの映画、全然笑えないです。誰だ笑ったやつは!みたいな映画。

 

主人公が男性だからか、男性性のありかた/男性の性のありかたみたいなものも垣間見えてきます。女性性に関しては些か放置気味ですが、この映画においてはそんなことは放っておいてよいでしょう(ウーマンリブな映画はいまどき溢れすぎていて食傷気味)。

 

全編通して通底されている『恋に落ちなければならない』という脅迫は、ある種現代社会への強烈な皮肉だなあと思います。もちろんそれを指して作られているのでしょうけれど、夫婦円満でなくてはならないとかセックスをしなければならないとか、嘘があってはならないとか。嘘があっちゃいけないんですか?相手や自分を守るための嘘であっても?という疑問がすぐわいてくるようにできている。

そんな強制された状態で恋愛できるかっていうと、まあ、当然できませんわな。

 

でも問題はその先にもあって、『独りを選んだらずっと独りでいなければならない』。これ、今の社会にもわりとあるんでないかなあ、という気がします。

つまり恋愛を楽しむ人類と楽しまない人類で二分されていて、その間を自由にいったりきたりするのが非常に窮屈なのですよ。映画本編とはまったくかけ離れますが、『非モテ』『非リア』って集まりたがるじゃないですか。揶揄であっても、カップルが成就しようものなら村八分にしてみたり。それが映画本編のなかではもっと強烈なかたちで出てくるのですけど、そういった雰囲気、そういえば現代社会にもあるんじゃないかなあとふと思ったんです。

 

あと、偽装夫婦のシーンで出てくるホームセンターのシーンがすっごく好きでした。ものすごく気を遣って生活用品を購入するのですが、街に出ていくのにこれくらいの精神的負担を負って出てきている人っているんじゃないかな、という気持ちにさせられました。この気持ちはうまく言い表せないのですが、「よそに出ていてもおかしくない人間」を装いながら生活の用を足すのがめちゃくちゃハードルの高い時期が自分にはかつてあって、そのことを思い出したんです。野生動物をスーパーマーケットに連れてくるみたいな感じ。おそるおそる周囲をうかがいながら生活する。

 

それでもひとりではいられないときもある

映画を観ての感想なのでこれはなんともいえないのですが、なにせ勧めてくれたのがわたしの姉だったので色々思うところはありました。なるほど、好きそうだな、と。

 

わたしたちはいつも「社会に所属していなければならない」し、そうでなければ安定できないようにできています。映画みたいな理不尽なルールは徹底されていないだけで、真綿のように首を絞められている人たちもいるわけです。

夫婦でなくてもいい、恋人にならなくてもいい、ほんとうに気の合うひとを必要とするあいだだけ一緒にいることも可能だろうなあと日々自分は思っているので、まさにそれを皮肉のかたちで描き切ってみせた「ロブスター」は自分のなかでは名作(迷作?)となりました。

影についての知覚 (0)

もうすぐ、働き始めて2年目が終わる。20代もなかばを過ぎて、後半に差し掛かった。いい時期だなあとつくづく思う。

諸々のことについて節目が来たように感じ、まとめを書いてみたいと思ったが、うまくまとまらない。なので、連載のような形式にしてみようと思う。各々の章でまとまりを持たせた掌編になれば多少書く者として面白いかも知れない。どうしてそのようなことをしてしまうのかわからないけれど、多分癖のようなものだ。何度でも何度でも繰り返し振り返る癖があるのだ。

 

10年目という節目について

9年前の3月の末、わたしはほとんど燃え尽きていた。高校2年生の春だった。次の月である3年生の4月の頭に、自殺未遂(と見做されること)をし、今の自分からはあるまきじきことだけれど救急搬送され、その数日後から1か月余り入院した。積極的治療というより、家や学校という環境からいちど物理的に距離をおくという休養目的での入院だったけれど。

 

あれから9年経った。自分はいま病院で働いていて、毎日病む人たちを相手にしている。その死を看取ることさえある。余談だが、先日祖父が亡くなった。病院で働いていると「死ぬ瞬間」には立ち会うが、そのあとの儀礼的なことにはほとんど関わることがないので、有難い体験でもあった。

 

この手記が誰かの訳に立つとは決して思えないし、ほとんど自分のための過去の慰撫という意味しか持たないのだけれども、それでもあえて人に向けて書くのは「なにかの」足しになればいいやという思いからである。娯楽でもいいし、参考でもいいし、(たまにありがたいことに)目標にでもいい。

 

回復過程としての事実はそんなに書かないし、つらい記憶としても書きたくない

高校を卒業してから8年、実はこれから「社会人」をやりながら「大学生」になるつもりでいる。まだ実際にそうなるかは未確定なのだけども。

コンプレックスがなかったといえばウソになるし、あったというほど強い行動の根拠にはなっていなかったが、なにかを体系的に学んでみたいという思いが強かった。それが直接生産的な物事に繋がるという快感をいちどでいいから味わってみたい、というただそれだけの動機なのだけれど、10年でここまで自分が回復するとは正直あまり思っていなかった。周りからの期待ももうなかったと思うけれど、自分自身がいちばん自分を信じていなかった。今も勿論信じきってはいない。

 

それでもなぜか頭の中はハッピーだった。

これがとても不思議なことで、たとえばうつの最中にあって毎日泣き暮らしていたときにも「死にたい」「消えたい」という思いと、「自分はとても恵まれている」「幸福である」という思いが同居していることが多かった。不幸である、と感じたことがほんとうに一度もない。希死念慮を抱いている間は不幸であると言われてしまえば勿論そうなのだけど、これこそ本人の主観の問題であるため困ったものである。病気で苦しかった間も、必ず世界はいつも美しかった。

 

10年なんて、生きていれば誰にだって過ぎていく。

10代なかばから20代なかばなんて、いい時期だ。ほんとうにいい時期だ。青春に戻りたいという人もいるし、同窓会を開いて和気藹々とする人もいるし、卒業アルバムには写真がある。体の発達と精神の発達が自覚的である時期であり、その時期に悩んだことは何物であっても自分の糧になる(と、わたしは勝手に思っている)。

けど自分にとっては、その10年の間のほとんどが苦しくつらい時期だった。勿論上記のように幸福だと感じることができても、人生がすべて奪われてしまったように感じることがあり、うち1-2年についてはほとんどベッドの上で過ごし、眠れず、食べられないといったよくある症状にたいへん苦しめられた。それがある程度コントロールされ、一般的には過酷とされるような職業を年単位で継続できているということは、数字で考えるより体感としてもっともっと幸福なことであったりする。

 

ときどき、じぶんは幸福になり過ぎて、死んでしまうのではないかと思うことがある。

天罰が下るのではないかと思ったり、今までのこれは全部夢でないかと疑ったりする。起きると身体は憂鬱なあのベッドの上にあり、その脹脛には自分で傷つけた生々しい傷口が痛みを伴っているのではないかと思うことがある。だから夜中に物音がしない部屋で目が覚めるのは、今でもとても恐ろしい。

 

だから、情景として覚えている「あのときたまらなく美しく見えた景色」について、そのときの自分の状況も含めて、ここに書いて行く。そんなに期限は設けていないけど、思いついたときに。

 

あの何度も私を泣かせた世界の景色がいま全部自分の手の中にあって、ほんとうに毎日がしあわせに思う。

 

臨床2年目も終わるし

今年度も本当に失敗ばかりした。仕事も不出来だし、私生活も実にうまくいかなかった。というのはまさに自覚的なこと・他覚的なこと全部含めてだけれど、やり直しをさせてくれる周囲の人びとや環境に感謝するとともに土下座せんばかりの勢いで謝りたい。

でも結局どう頑張ってみたところで、多分この無様というか惨めな生活はそんなに変わらないのだろうとも思う。見つけたところを微修正していくことでしか得られるものはない。10年間生きてみて取りこぼしたものについて、取り返すつもりで修正を重ねていきたい。

章が進めば臨床2年目のまとめとして書いてみてもいいし、あるいは別建てて書いてもよい気がする。にんげん、もっと他人に語るようにして物事を整理してみてもよいのではないか。自分だけがおしゃべりなようで恥ずかしい。

100冊読破 3周目(11-20)

1.精神について―ハイデッガーと問い(ジャック・デリダ

精神について―ハイデッガーと問い

精神について―ハイデッガーと問い

 

討論を、たとえもうすでにとても遅くなっているとしても、中断させなければ十分です。眠ることのない精神は、帰り来て常に残っていることをするでしょう。炎や灰を通して。しかし全く別のものとして。避けようもなく。ージャック・デリダ『精神について』

ハイデガー読んでなくて『存在と時間』も当然未読なのによんでもうた。最初の方に書かれていた、「なにかが語られることによって語られないことが克明に浮かび上がる」みたいなくだりが好きでした。なんというかハイデガーの講演自体が、時代背景なくして語られえぬものなので理解は難しい感じした。ハイデガー読まねばな。

 

2.差異について(ジル・ドゥルーズ

差異について

差異について

 

ベルクソンは事前に『意識に最初から与えられているものについての試論』『物質と記憶』『笑い』を読んでいたのだがなんとなくドゥルーズの傾向はメルロ=ポンティよりもより弁証学的で知覚(主体)というよりは論理(客体)に近いものを感じる。

千のプラトー』『スピノザ』『差異と反復』とあれこれ読んでみたもののまだなにもわかっていないなあ

 

3.かくれた次元(エドワード・T・ホール)

かくれた次元

かくれた次元

 

じっと一目見つめるだけで、罰することも、励ますことも、優位を確立することもできる。ひとみの大きさで好きかきらいかを示すことができる。ーエドワード・ホール『かくれた次元』

 

われわれが文化の研究から学んだのは、知覚世界の型どりというものが文化の函数であるばかりでなく、関係、活動性、ならびに情緒の函数でもあるということである。

 

ウェストエンドの人たちが悲しんだのは、環境そのものではなく、一つのまとまった生活様式としての建物、道路、そして人間という複合された関係だったのである。

 

文化の次元はその大部分がかくれていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に目をつぶっていられるかである。

なにといえばいいのか困るが、公共空間の知覚に関するはなし。

臨床のひとというよりかは、むしろ建築のひとたちに読んでいただきたい。

 

4.抄訳 古代哲学者墨子―その学派と教義(ミハイル・レオンティエーヴィッチチタレンコ)

抄訳 古代哲学者墨子―その学派と教義

抄訳 古代哲学者墨子―その学派と教義

  • 作者: ミハイル・レオンティエーヴィッチチタレンコ,飯塚利男
  • 出版社/メーカー: MBC21
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

墨子の兼愛思想好きなので読んだのだがこれを初墨子本にするのは明らかに間違っている気がする。一応昔『墨攻』は読んだことがあるけどそういうレベルじゃないこれは完全に教科書というか研究書のたぐいだ。しかもロシア人が書いたやつ 正直ちんぷんかんぷんだった、が、そもそも文化大革命によりかなり失われてしまった貴重な資料の多くがロシアに流れていてそのまま保管されておりロシアには古代中国哲学研究の素地があるという文化的背景が面白かった。墨子自体についてはなんというか法哲学社会学的な側面が大きくて所謂隣人愛とかというより功利主義的面が見えた。

というより中国思想史自体が全体的に、哲学寄りなのかもしれない。

 

5.『荘子』―鶏となって時を告げよ(中島隆博

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

 

コミュニケーションとは、メッセージを、バックグラウンド・ノイズとそのメッセージに内在するノイズから、引き出すことを意味する。コミュニケーションとは、干渉と混乱に対する闘いである。ーアルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』より

墨子社会学法哲学という感じだったけど荘子は公共の哲学という感じである。

結構他我の境界が曖昧な論理が多いというか、あまり個体としての肉体を意識していないのが面白かったです 荘子もうちょっと読みたい。

 

6.『孫子』―解答のない兵法(平田昌司

『一曰度、二曰量、三曰數、四曰稱、五曰勝、地生度、度生量、量生數、数生稱、稱生勝、故勝兵若以鎰稱銖、敗兵若以銖稱鎰』ってやつが好きだった。何かものことを考えるにあたり、その地形や概観を把握して投入すべきリソースを考えるというのはほぼマネジメントの考え方。確かに経営者が持て囃す理由もわからなくはないが、物事のとらえ方の整理であって実際に経営に使えるかといえばそうではないと思う。なぜビジネスマンはすぐに孫子を読もうとするのか。

 

7.不確実性の時代(ジョン・K・ガルブレイス

不確実性の時代 (1978年)

不確実性の時代 (1978年)

 

ヴィトゲンシュタインの『論考』を読んだからだろうか、ちょっと面白いなと思った。私は大抵本を選ぶとき、本屋・図書館のどの棚にあるか/どの著者のものであるか/どんなタイトル・副題であるかに結構左右されている。『不確実性の時代』は、経済学の中でもエスノメソドロジーに近いところにあった。なおかつ、ガルブレイスの手によるものでなければ私の目には止まらなかったと思う。経済学に疎く、一般の高校生くらいの知識しかない自分にとって(マルクスを除いて)初めての本がガルブレイスの『現代経済入門』だった。非常に読みやすかったので、この本にも期待したのだけど、正解だった。

でもガルブレイスにまつわるこのような経験がなければ、少なくとも高校の教科書にはガルブレイスの名前はなかったはずだし(もしかしたら資料集とかにはあったのかも知れないけど)、自分は多分この本を手に取ることができなかったろうということだ。『現代経済入門』も、たまたま古本屋で見つけた。というわけで本書は経済学から見た近代世界史の解釈、というか経済史のような本であったわけなのだけど、近-現代社会って政治的な解釈をするよりも経済的な解釈が補助にあったほうが随分わかりやすいのだなあと思った。高校のときにも思ったことだけど、経済ってあまり高校で教えてもらえない。1978年の訳だけども非常に読みやすいし(訳者の業かどうかはわからんけど)、2009年版のが講談社から出ているので、私のような門外漢にはありがたい本。

 

8.社会理論の現代像―デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジーアンソニー・ギデンズ

社会理論の現代像―デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジー

社会理論の現代像―デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジー

 

 人間の自由は、行為の結果を知ることばかりでなく、その知識を行動の反省的合理化のコンテクストのなかに適用することにもあるからである。ー『社会理論の現代像』アントニー・ギデンズ

副題を知らずに読んだ。図書館はカバー外されているのでこういうことがよく起こる。適当にジャケ借りというかタイトルに惹かれて手にとってあわや挫折するかと思うくらい大変な本だったのだが、この本自体が目指していたものがなにかが見えて来ると途端に価値あるものになるので不思議なものである。

マルクスについてはいろんな人がいろんな角度から解釈を与えている 前に読んだガルブレイスの本にもあったし避けては通れん道なのだが、社会哲学というか社会科学と公共哲学が分かれる前の哲学というか方法論的な経済学と解釈してよいような気がしてきた。あいにくデュルケムもウェーバーも読んでいないので話の委細ははっきりいってさっぱりわからんといってもいいくらいなのだが、哲学がまだ社会哲学としては唯物論的史観しか持っていなかった頃からの観念の転回を援けたのが本書なのではという気がする。しかしユルゲン・ハーバーマス、公共哲学においてはかなり重要なポジションっぽいので『公共性の構造転換』だけでも読んでおいてよかったーという気になっている 社会学という大枠についていけないからこそ法哲学とか経済学に区切って考えているのだよ

 

10.エスノメソドロジー社会学的思考の解体(ハロルド・ガーフィンケル

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

 

 私たちがすでに確証したことは、規則を決め、状況を定義することも、当の行動を記述することも、物語の語り手の特権であるということだ。...私たち(読み手/聞き手)は、もとの実際の行動をこのような記述的カテゴリーに変形するコード化手続きの適切さを信用しなければならない。

これに関して、東日本大震災の折の混乱を思い出してコメントを下さった方がいたので少しつけたしを。コード化について、たとえば一定のメソッドにしたがっていればそれに倣って誰かの語り口を塞いでよいかといえばまったくそうではなく、反対にナラティヴなものについて、質的・量的にひとつの視座から簡単に評定していいものではない、ということです。

あとは『受刑者コード』の章が面白かった。会社とか部署とか、教室やラボみたいな狭いコミュニティにおける文法に苦労したことがある人は結構いると思うんですけど、自分はそこから落伍するひととなんとかコミットする人の差やそこのムードが良かったり悪かったりする理由がとてもきになるのです。社会心理学みたいな分野はあれどそれだけでは説明がつかないだろうし、勿論そこでのローカルルールや個人の社会的要素も反映されると思う。ミニマムな公共哲学みたいな感じですかね。アノミーについて深めていきたい所存。