毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破 2週目(41-50)

1.日本のシビックエコノミー―私たちが小さな経済を生み出す方法(フィルムアート社編集部)

日本のシビックエコノミー―私たちが小さな経済を生み出す方法

日本のシビックエコノミー―私たちが小さな経済を生み出す方法

  • 作者: 江口晋太朗,太田佳織,岡部友彦,小西智都子,二橋彩乃,紫牟田伸子,フィルムアート社編集部
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2016/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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馬場正尊氏の『公共空間のリノベーション』とかなり似た形だけどこれはNPOがやっている事業にスポットしたかたちのもの。つまり場所ではなく活動そのものについての書き物。読み物としてかなり楽しいからぱらぱら読む程度でいいと思う 書いてあることの実際はかなり面倒くさいのでやろうと思うと大変だしこれ1冊で何かを学んだ気になると痛い目に遭うと思うけど、都市の片隅で何が起きているかを理解するのは楽しい。

 

2.図説 都市空間の構想力(東京大学都市デザイン研究室)

図説 都市空間の構想力

図説 都市空間の構想力

  • 作者: 東京大学都市デザイン研究室,西村幸夫,中島直人,永瀬節治,中島伸,野原卓,窪田亜矢,阿部大輔
  • 出版社/メーカー: 学芸出版社
  • 発売日: 2015/09/04
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 ヤン・ゲールは都市空間におけるある一点の人間の滞留について書いてたけど、都市そのものとなると人間の対流が問題になる気がする。どれだけの人間が浮動しているかというか、まあそこでインタラクトがなければ意味がないので滞留に焦点を当てたのだろうけど。弘前の禅林街や小倉城址の周りの建築の発展とか、身近な都市の発展経路とかその目的がさくさく解説されて小気味よいです。

 

3.暴力の人類史 下(スティーブン・ピンカー

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 

これに関しては色々衝撃がありまして単独の記事を書きました。おすすめです。

暴力の人類史:内省・自律・希求 - 毒素感傷文

 

4.現代建築家コンセプトシリーズ(5冊:長谷川豪、藤本壮介藤村龍至、タクラムデザインエンジニアリング、安東陽子

長谷川豪―考えること、建築すること、生きること (現代建築家コンセプト・シリーズ)

長谷川豪―考えること、建築すること、生きること (現代建築家コンセプト・シリーズ)

 

 

藤本壮介|原初的な未来の建築 (現代建築家コンセプト・シリーズ)

藤本壮介|原初的な未来の建築 (現代建築家コンセプト・シリーズ)

 

 

  

『takram design engineering|デザイン・イノベーションの振り子』 (現代建築家コンセプト・シリーズ18)

『takram design engineering|デザイン・イノベーションの振り子』 (現代建築家コンセプト・シリーズ18)

 

  

安東陽子 テキスタイル・空間・建築 (現代建築家コンセプト・シリーズ vol.20)
 

1冊ずつではちょっと情報量的に不足があるかな、と思って今回購入した5冊を1冊換算にしてみました。建築に関しては色々思うことがあって、また別の記事にしようと思います。まだ書けていません。

 

5.氷河期以後 下-紀元前二万年からはじまる人類史-(スティーヴン・ミズン) 

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

 

上巻読んでから結構な時間が経ってしまったのですがとうとう読み終えることができました。本としてかなり読みづらい、というか分厚くて大変です 地理学もしくは考古学に秀でていなければ難しいと思います(自分にはかなりきつかった)何故読み切ることができたかといえば、多分知覚に寄っていたから。

味覚、視覚、触覚、情景、ありとあらゆる知覚に沿ってものごとが書き添えられていくのは考古学だとか人類学にはなかなかない観点かなと思います。副題をつけるなら『知覚の人類学』か『葬礼と芸術の歴史』という感じ。

人間の知覚はいつの時代もあったはずで、そういう点においてダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』で補いきれない部分を補填してくれたように思います。文化人類学に興味のある人、あるいは哲学の中でもレヴィ=ストロースとか読む人にはお勧めかも知れない。私はこれ読んで『野生の思考』読みたくなりました

 

6.人類のやっかいな遺産──遺伝子、人種、進化の歴史(ニコラス・ウェイド) 

人類のやっかいな遺産──遺伝子、人種、進化の歴史

人類のやっかいな遺産──遺伝子、人種、進化の歴史

 

予想以上に不真面目な本だったので真面目に読んだ。『人種』の存在と経済的・学術的な発展の関係についてさくっと喋る本。なお要注意。めっちゃ読みやすいけど、あまり本を読まない人が読んで浅く鵜呑みにすると完全に恥をかく。本書で取り沙汰されるなかで私が読んだことがあるのはダイアモンド『銃・病原菌・鉄』とピンカーの『暴力の人類史』、マルクスの『資本論』だけだったけど、いずれも引用方法を誤っている。述べられているのはそのようなことではない、が、あえて人種というナンセンスな線引きに着目するのもアリだ。本をよく読む人や、論文を読み慣れている人にはちょっとだけオススメできる(読み物程度に)。それは人種という峻別方法のナンセンスさを改めて感じるために、という意味でだけど。結構面白いしすいすい読める、すいすい読めるからこそ危険。

 

7.八本脚の蝶(二階堂奥歯

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

これはものすごく、自分にとってよい本でした。色々考えさせてくれました。

別に記事を書いています。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』:生命への言祝ぎについてのあれこれ - 毒素感傷文

 

8.見えるものと見えざるもの(モーリス・メルロ=ポンティ

見えるものと見えざるもの 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

見えるものと見えざるもの 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

 科学は知覚の信憑を前提するものであって、これを説明するものではない

ドゥルーズ読んだときにも少し思ったんだけど、近代-現代思想においてこと観念的なものはかなり大きく転回しているし、著者の生きている文脈も変動していて読み込みにくい。以外と古典の方が観念には馴染みやすかったりする。特に情報網の発達に関してはマクルーハンの世代から180度くらい発展しているわけで、そう思うと1周回る前の古典のほうが親しみやすいのもやるかたなしという感じはある。ドゥルーズとかその少し前のメルロ=ポンティとかの思想が夢見た発展は1980-90年代にかけて一瞬で過ぎ去ってないか、と思うわけで。

 

サルトルのいう即自-対自存在に関する補講という感じで読むことができました。別に否定はしていないと思う(批判はしています)

メルロ=ポンティの絶筆だそうで、その後の構想だけの研究ノートがたくさんあるのが読んでいてたいへん面白い。シューベルト交響曲7(8)番『未完成』みたい。その2つでもう完成しているような気もするし、続きが読みたいような気もするし。

見えるもの=表象、即自存在 見えないもの=対自存在、空間 とするのが正しいかどうかはわからないけど、イメージとしてはそのように読みました。『眼と精神』とかも読みたい。

 

9.ジョルジュ・バタイユの反建築―コンコルド広場占拠(ドゥニ・オリエ)

ジョルジュ・バタイユの反建築―コンコルド広場占拠

ジョルジュ・バタイユの反建築―コンコルド広場占拠

  • 作者: ドゥニオリエ,Denis Hollier,岩野卓司,石川学,神田浩一,大西雅一郎,福島勲,丸山真幸,長井文
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2015/09
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バタイユが嫌いなのかニーチェが嫌いなのかわからないけどやはりあまり好きではないことを感じた。建築に関しても爛熟の時期があるように、哲学、特にペシミスティックな哲学に関しても爛熟の時期があると思う。バタイユに関しては自分の中ではその位置づけにあると思っていて、だから読むのが苦手で読んだことがない。けどバタイユについて論じた本を読んだからにはいつかバタイユも読まなければならない気がする。

 

10.コミュニケーションのアーキテクチャを設計する―藤村龍至×山崎亮対談集(藤村龍至) 

ケアの概念に近い。これ1冊読んでどうにかなるわけではまったくないけど、いや楽しかった エンパワメントという言葉を建築のひとから聞けると思わなかったから。自分たちは仕事をしていると当たり前のようにエンパワメント、セルフエフィカシー、レジリエンスといった概念を扱うのだけども、よく考えたら建築関係の方には最後のひとつ以外はあまりなじみのないものなのではないかなという気がする。かなり発展的、というか。

もうちょっと、建築デザインにアプローチしていきたい気がする。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』:生命への言祝ぎについてのあれこれ

こわがりでよわいのはかまわない(仕方がない)が、楽になろうと力任せに何かを定義してはいけない。ー二階堂奥歯『八本脚の蝶』p100

 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

Twitterで読書評を書きまくっていたら、とあるひとが勧めてくださって、読みました。本当にありがとうございます。いい本でした。

本書はブログ記事の再編です。編集者として短い生を生き、そして25歳で自殺した彼女のウェブ上の生を、自分が25歳であるうちに読みたいなと思って読みました。

 

今回は完全に感想なので、徐々に自分の話したいことだけになっていくことも、医療者としては多少不適切な思考が混じることもお赦しいただきたいなと思います。

 

先ず目につくのは他の人も書評で述べていたその圧倒的な読書量、そして引用の多さ。特に哲学(主に言語哲学系、神学批判的なものが多かったです)と耽美的世界観は彼女の生きていた世界の知覚を思わせます。

どうしても最期に自殺をしたというその一点が目に付きますが、生きていた彼女は身体感覚に、ジェンダーに苦しんでいました。私は私以外の人間がそれに苦しむさまを見ることで、それから逃れることができましたが、彼女は真向から向き合っていたのでそれはそれは苦しかったろうと思います。

 

自分は小さい頃、あまり本をそうたくさんは読みませんでした。そして耽美や身体への歪んだイメージはあくまで歪みとして捉えて、生育的、健康的な生命について考えるために医療職になりました。まあ楽に安く学べたからというのも大きいですが。

 

自分が勝手に思う彼女からは、完璧主義者的性質、奔放で天衣無縫で天邪鬼、そして目に余る衝動性の高さが伺えました。
岡崎京子への多大なる共感、服飾や化粧品への興味などから、ストイックなまでの美と身体の制御への志向性もみられます。恐ろしいほどに。その感覚は『わかる』のです。わかるというと語弊があるでしょうが、まあそうとしか表現できぬものなのです。

 

彼女は同じく読書家であるひとと出会いますが、最期のほうにメールのやりとりをしていました。自分が好きであったものをひとつ。

正面から雄々しく戦ってはならない。負けろ。

(中略)

じぶんの魂に誠実であってはならない。

魂を売り渡して生きろ。

醜くだ。

逃げ道はある。

逃げなければならないものから逃げ出すんだ。

立ち直るな。

退却しろ。

 

あなたは敗北したのだから。

退路を探すんだ。

 

ーp369

 

 

逃げて負けて生きる。生活する。

鮮烈なまでの生命であったな、と自分自身の往時を思い出すことができます。今でも。

ここからは書評や感想よりも自分の考えがメインになります。

 

自分は17歳のとき、自分の魂を売りました。

負けました。見事に、ぽっきりと折れて。

生きるのがつらく、耐えかねて、自殺しようと何度も考えました。懐かしいことです。いま自分は25歳まで、なんとかかんとか生きています。すごく嬉しいことに、希死念慮を抱くことはもうほとんどありません。さらに嬉しいことに、手堅い職があり、職場に恵まれたので仕事も楽しく、知己とも楽しい交流があり、生きていくことができています。もうすぐ26歳です。あと数日で。

 

8、9年前、そんなことに思いが及んだでしょうか。

 

己の生命を肯定することさえできずに、魂から否定されて、肉体を潰してしまおうとずっと考えていました。死にたいというよりは、己を殺してやろうと、文字通り自殺しようと毎日思いましたし、その思いは社会生活をままならなくさせましたし、当然心の病気になり、そのあと数年の療養を必要としました。

 

この本を読んでいると、勿論自分とは違いますし、むしろ自分の周りにいる人間に似ているなあと思うこともままありました。

でも、今も生きている自分がいくつか、考えたことがあります。

『負ける』(逃げる)こと。

『生活する』こと。

『生命を肯定する』こと。

 

負けること

メールの文面にもありましたが、負ける(逃げる)ことは大切なことです。

私は(彼女も、かもしれませんが)己の意志によって己を否定してしまったがために病気になってしまったと今でも思っています。それは自分のせいとか、弱さとか、そういった問題ではありません。物事の考え方、捉え方、心の反応が、すでに外界に対してそのようにできているのです。それをマインドフルネスだの、カウンセリングだので根本的にどうこうすることは今やまったく望んでいません。適切ではないからです。

魂がそのようであることは、良いことでも悪いことでもありません。他人は自分より生きやすく、たいそうまともで、立派かも知れません。でも、それで構わないのです。自分の体は、知覚は、他人にどうこう言われても言われなくても自分だけのものでよいのです。他者からの肯定など必要せずして既にそれで一個の完璧な個体なのです。だから、瞬間的に完璧でなくてもよいのです。彼女の言葉を借りるに、『私という物語』は勿論本人の手で終わらせてもよいのですが、潔さだけが生命ではありません。それは文脈であり文学です。文学は、決して、目の前で活動したりはしない。個体は個体を維持するあいだ、汚くても醜くても、そこに完璧なものとしてあることができます。

 

生活すること

逃げた先にあるのは、ただ生活です。生きるというそれだけの営為です。

彼女の文面からは、あまり生活が出てこない。なぜなんだろう、と思います。

綺麗なものしか綺麗じゃない、なんてことはないのに。

 

療養する2-3年の間、最初の1年はほとんど寝たきりで過ごしました。食事も殆ど喉を通らず、うまく眠ることもできず、自分の人生に負けてしまったことがつらく、将来が怖く、ほとんど毎日泣いて過ごしたことを覚えています。引きこもっていたわけではありませんが、外に出るのがつらくて単純な用事をする以外は家で引きこもって過ごしました。それが生活。

次の1年、少し働いたりするようになりました。ほんとうに少しですが。やはりそれ以外の時間は寝たきりで、つらさを抱えたままで、食も細く生活は不規則でした。ただ、美味しいものを少しだけ美味しく食べられるようになりました。この頃になっても相変わらず涙もろく、なにかつらいことがあるとすぐに涙が出てきましたし、希死念慮は止むことがなかった。ただ、そういう毎日を繰り返すことができるようにはなりました。

 

この『なんでもない毎日の繰り返し』が大変になったら、休んで逃げるべきだな、と自分は思います。反対に、生活ができなくなったとき、最初に取り戻すのは可能な範囲での『なんでもない毎日の繰り返し』だと思います。それはただ、最低限流動食でもいいからエネルギーをとり、できたら歯を磨いたり風呂に入り、あとは眠ることです。それができたら、かなり上出来だと思います。他人に頼ってもいいし、ジャンクフードでもいい。1日3食なんてどうでもいい。喉を通ったら、素晴らしい。

 

私はいまは人の生活をそうやってマネジメントし、介入することを生業にしていますが、それは偶然であり必然だとも思っています。当たり前のことを行うのはそれ自体が既に奇跡に近い。

 

生命を肯定すること

精神分析学、実存主義哲学の方面で有名なV.E.フランクルの自殺に対する見方は結構峻厳です。それはキリスト教的世界観からの自殺を罰する見方ではなく、生命の否定を否定するというものです。

私も実は同じ考えをもっていて、しかしその考えは自分の自殺を否定するためにしか用いません。いまを生きることがつらく、いつか自ら死ぬことをなんとか心の支えにしている人間の命綱を切ってはいけないからです。

 

ただでも、彼女にしろ、すべての自殺した人にも、すべての自殺しようとしてできない人にしろ、死ぬことについて考えたことのない人にしろ、病気やほかの理由で今にも死にそうな人にしろ、『死』というその瞬間までの生命を(そしてその物語を)自分は言祝ぎたいなあと思うのです。それは倫理的な観点からではなく、個体が生命を伴い生きているというその営為がそれだけで既にうつくしいからです。

 

自分は二階堂女史ほど、物語を好みません。耽美に傾倒することもなく、むしろ物語は日々の生活や労働の片隅に潜んでいます。それを読み取るのが密やかな日々の楽しみです。

 

終わった物語を惜しむのは性に合いません。終わったにしろ終わらなかったにしろ、現在進行形にしろ過去形にしろ、生命は生命なのです。終わりが自殺にしろそうでないにしろ言祝ぎたい。そして自分自身は、いつか死ぬその瞬間まで生きていたいなあと思う。

 

この本、とてもよかったです。

暴力の人類史:内省・自律・希求

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

 

 

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 

読みました・・・なんかノリで読み切ってしまって大変疲れました。

ぶっちゃけ今苦しんでいる問題を下巻でかなり抉られまして、自分としては予想外の打撃で今SAN値がピンチです。

 

本の概説

前半を読んだのが半年前なのでちょっと記憶が薄れてしまったりしているのですが、大まかなところとしてはマシュー・ホワイトの『殺戮の世界史』をより統計的に多方向から(そして分析的に)詳らかにしていく感じです。前者については読みやすくはありますし、世界史概観的によいので楽しいのですが、暴力の人類史は結構本としては読みづらいです。話があちこちに飛びますしいろんな概念を必要とします。

 

ダメージの内容

下巻で自分はなぜこんなにダメージをくらってしまったのか?と、ちょっと自分でもびっくりしました。突然、統計的・世界史的な観点から心理学的(特に実存的)観点に飛び火したからでしょうか。

殺人は数です。テロにしろ、戦争にしろ内紛にしろ、毎日目の中に飛び込んでくるニュースは数と、隔たりのある距離を伴ってしか報道されません。それでも自分は昔結構、傷つきました。なにに? どこかで傷ついている「誰か」そのものの存在に、です。

 

本書下巻では「共感」について触れられている章があります。

中盤は飛ばしますが、途中に「共感はすべての問題を解決しない」とあって(まあその文脈は諸々あるのですが)膝を打つと同時に、あの絶え間なく降ってくる「共感の連鎖」みたいな苦しみを思い出しました。

共感(の前段階のミス、同一性の過剰と言い換えてもよいのですが)することは問題解決の手法としてあくまで能動的に選択するものであって、無意識に起こると面倒以外の何物でもないのです。共感性の向上が一時的な暴力の(総数の)減数に寄与したとしても、それはゼロではなく、むしろ『暴力の矛先の選別』にしかなりえないのだと思うのです。つまり『こいつなら殴ってもいい』という。実際に拳が振るわれるとは限りません。社会的な迫害かもしれないし、迫害に至らないまでも疎外かもしれません。あるいは問題の軽視、無視、軽侮かもしれません。

 

自分はどうしても共感(あるいは接続)過剰な職場にいますから、結構意図しない感情の伝播に日々疲れています。空気を読みすぎたり、読まれすぎたり、いっそ読まなくてもいい文脈を読んでしまったり読まれてしまったり。それは対象との間でなくとも、同業者間でも行われます。自分はときどき、空間的に分断されたい気持ちに襲われます。まあそんなことかなり前からなのですが。

 

それはいいとして

で結局暴力の出どころはどこなのよみたいな話にも言及していくのですが、それそのものの話題じゃなくて自分は『自制』のくだりでぶん殴られてしまったのです。

自制すること、自律・節制をよしとしてきましたがその実この1年ほど自分の身に降りかかってきたのはその2項によってもたらされる心身の安寧からは程遠くてですね、つらくてつらくて本ばかり読んでいたわけです。そしたら読んでる本に殴られた。

自制というものは抑圧とは違うんですよね、当たり前のことながら。

自分は抑圧することは上手にやりますが自制(セルフコントロール)に関しては本当に上手じゃない。だから時々爆発するし、以前においては病気になったりすったもんだしたので、抑圧は極力避けようとしてきたのですが。

これは個人に関する話のことで、世界的にみたときの暴力の減数を自制心の向上(個人レベルではそうで、社会的には公正とか道徳の向上ですが)とするならば、自分はまったく社会に寄与してないじゃないかとなんとなく曲解してしまいまして自分のメンタルが突然ダメージをくらったのです。

共感過剰な人間が社会における暴力の問題を必ずしも解決するわけではないということに同意しておいて、自制のきかない同一性過剰(過共感とでも呼べばいいですかね)を振りかざしてしまうとやはり自分自身も暴力装置たりえてしまうのではないかという不安がぬぐえないわけです。

それは正義の押し付けであったり他者に自己の抑圧を強制することであったり。今も自分が恐れていることなのですが(もっともそんなに力を持っていないので特になんの意味ももちませんけど)

 

そんなわけでちょっとした自分の長年の根源的な不安に触れてしまいちょっとつらかったというお話。

 

平和(安寧)への希求について

本書中ではベンサムとかミルとか功利主義に深く触れていますが、それはあくまで『暴力の調停』を目的としたときのことであると思います。つまり社会制度とかにおいて優れているとかそういう話でないと前書きしておいて。

自分は結構気に入ったのですが、暴力が行使される場合とそうでない場合において「そうでない場合のほうが長期的に考えると価値(利益)がある」という見方がとても好きです。正しいとかいつもそうされるべきかどうかはまた別にして(できたらそうあって欲しいですが)、短期的な利益よりもできたら長期的な利益を、たとえば公益性を希求するほうにシフトしていきたいのです。そして、長期的な価値の観点を外さずに、短期的な利益のなさゆえに誰かが自分自身を傷つけることがなければいいなと思ったりもします。まあ最後のひとつについては本書の内容からは大きく逸れるので本当にただ読みながらぼんやり思っただけなんですけどね。

 

自分の存在の存続に関する大きな指針は『銃・病原菌・鉄』『利己的な遺伝子』に代表されるのですが、『暴力の人類史』もよかったです、死にたい人におすすめです(どんな宣伝なんだ)。

100冊読破 2周目(31-40)

1.現代都市理論講義(今村創平)

現代都市理論講義

現代都市理論講義

 

都市理論の潮流を俯瞰しつつ、都市構造についての概説もしてくれる本。何より読みやすいのも魅力。

未だにジェイン・ジェイコブズの本は読んだことがないのですが、彼女の都市理論における立ち位置がかなり明確になったように思います。自分は近代都市理論よりはすでに現代都市理論にどっぷり浸かっているので、この本の方はたいへんによかった。

 

2.ホモ・サケル-主権権力と剥き出しの生(ジョルジョ・アガンベン) 

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

 

『裸性』が好きだったので読んでみたのですがわりと限局的な本でした。政治的文脈、とくに虐殺や倫理的境界のまだ定まっていない領域における身体の権利についてという感じ。往時におけるいのちの定義がみえるような本です アーレントはわりと批判されている…

 

3.進化する都市:都市計画運動と市政学への入門(パトリック・ゲデス)

進化する都市: 都市計画運動と市政学への入門

進化する都市: 都市計画運動と市政学への入門

 

タイトルに惹かれて読んだけど初版が100年前の本でした。こちらは現代都市理論ではなく近代都市理論。産業革命以降都市計画がどんな風に実施されたかを、イギリス・ドイツをモデルに展開していく。計画的な都市のメタボリズムとジェントリファイがなされるわけですが、アンチ・ジェントリフィケーションともいえる現象がおきる。

それが大都市圏におけるスラムの発生と公衆衛生の危機なんでしょうが、合目的的に行われるジェントリフィケーションについてはかなりむかしによんだニール・スミスの『ジェントリフィケーションと報復都市』の方がよほどわかりやすいし読みやすい(地域限定的なのでそういう読みにくさはありますが)。

なんというか、古き良き古典。

 

4.リアル・アノニマスデザイン:ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア(柳原照弘)  

リアル・アノニマスデザイン: ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア

リアル・アノニマスデザイン: ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア

 

わくわくしながら読めました!日本の若い人のためのデザイン読本、っていう感じがあります。対談集ですが、『批判的工学主義の建築』の藤村龍至氏がインタビュアーだったので嬉しくて読みました。なかなか面白かった。プロダクトデザイン・都市(建築)デザイン・メディアに関わる人たちが何を考えどう関わってきたかの軌跡。

私が読みたかったのは建築デザインのところなんですが他の部分もまあまあ楽しいです。強いて言えば、やっぱりメディアを扱う項目はふわっとしがち。

 

5.死すべき定め-死にゆく人に何ができるか(アトゥール・ガワンデ)

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

 

これに関しては別記事を書きました。

構造をほどいていく-緩和ケアについてのあれこれ - 毒素感傷文

 

6.存在の大いなる連鎖(アーサー・O.ラヴジョイ)

存在の大いなる連鎖 (ちくま学芸文庫)

存在の大いなる連鎖 (ちくま学芸文庫)

 

観念史というものを初めて読んだなと思ったがよく考えたら『情念・感情・顔』もそのひとつだったと思う。正直に申し上げると不学にして通読したところで99%理解できていないと思う。素地になる文学にも科学にも哲学にも私はなにひとつ精通していない。

ただ通読するとなんとなく見えてくるものというのもあって、いつもそれを楽しみに、また恃みに、難しいなと思っても読む。今回は歴史の中に横たわる文学の中の哲学、またはその逆、神学からの哲学の分化と宗教学の学問化、科学哲学の源流をみたようで楽しかった。

何よりも楽しいのはそれが現代思想における脱構築的解釈に直結していることだと思う 構造主義的解釈のほうが無論理解はしやすいのだけど、脱構築的著述というのはまさしく『その構造の中に横たわる観照』に役立つ。構造主義脱構築的発想は決して矛盾しない、両輪回して意味のあるものだとも思う

コペルニクスの地動説もダーウィンの進化論もスピノザのエチカも今となっては事実であり前提になるので誰もその文脈を問うことはない けれど文脈の問い方を知らなければ今の先にまた新しく意図的な文脈を作ることも難しいように思う

 

7.ポストモダンを超えて:21世紀の芸術と社会を考える(三浦雅士) 

芸術に対し近年されるようになった身体性の賦与と、それから参加の原理に関してまだもやもやしていたので読んでみた まあ何か解決するというわけでもないけど読み物としては楽しい。

まあ似たような話の焼き直しを見ているようなものなんだけど、どちらかというと脱構築的なものの見方すると論点が崩れがち。悪くないとは思うけど、言いたいことを納得させたいなら普通の筋を通した方がいいとは思う 内輪の納得という意味では網状言論F改と似てるけど、こっちのが倍はまし。

 

8.後美術論(椹木野衣

後美術論 (BT BOOKS)

後美術論 (BT BOOKS)

 

『反アート入門』がわりと面白かったのでこの人の本2冊目なんですが、読まなきゃよかったと後悔した数少ない本のうちのひとつ。まあ1950-80年代くらいのメインカルチャーカウンターカルチャーについて知りたければ読んでも悪くはないという程度。

 

9.スティグマ社会学-烙印を押されたアイデンティティ(アーヴィング・ゴッフマン)

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

 

新しく知ることは多くなかれども、こういう解釈の仕方嫌いではない。

自分が臨床で毎日向き合っていることは、病院の外に出るとこういう現象なんだなあという解釈になります。他者の知覚を我が物にしたい。

 

10.外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か(白井恭弘)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

 

特に第二言語に興味のない人もある人も読めると思います!理論的というか構造化されていてわかりやすいし納得いくエビデンスもあって自分は大喜びできた。英語をやるやっていきが出てきた。

 

構造をほどいていく-緩和ケアについてのあれこれ

良い本でした。

最早なんのきっかけで見つけて、読もうと思ったのかわかりませんが。

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

 

結構考えていることは根源的なことなのでまとまりなくなることをお許しください。

 

批判的とはいいませんが、身につまされることが多すぎて、本当に毎日何やってんだろうと読んでいて地獄のように苦しい本でした。

あまり臨床のことを多くは書けませんが、老いも若きもいつかは死にます。死に方を選べないなあ、死ぬまでの生を選べないなあ、選ぶにしても選ぶための助言を得たりするのがとても難しいなあ・・・と、いつも思っていました。多分学生のころから。

 

この本は米国での緩和ケア・ないしナーシングホーム(介護・看護つき高齢者施設のようなものですね)のシステムの構築とその全体像の解釈・文脈と考察をケースごとに描いています。

高齢者医療というものが確かにあまり見えてこないのです。少なくとも私がいまいる場所では。そもそも健康保険というシステムがそうできているから(=生産年齢人口のためのものだから)というのもあるのですが、生産年齢にあっても労働に従事できないほど脆弱(フレイル)の状況にあるひとたちを、私は毎日相手にしているのです。

彼らの何割かは治療によってなんとか健康を維持し、何割かは致命的なほどに生活を侵され、そして何割かはそのまま亡くなってしまいます。治療の甲斐なく、というのは今ここでは不適切な言葉のようにも思えます。

 

「今ここ」での、姑息的な治療とケアプランの再考(姑息という言葉はもともと否定的な意味合いは含んでいないので、まさしく本来の意味で)という概念が、自分にはまだきれいにインストールされていないなと思うのです。生活の場所の再考、生活するために必要な知識と技術の再獲得、人生の編みなおし。落ちていく人生を受け入れながら、それをまっとうするだけのエネルギーを全員が持ちうるように計らうこと。

まったくできないんです。2年働いてみましたが、まったく身につかないのです。

私自身は積極的治療や、完治というものをまったく念頭におかずして臨床にいるのですが、それでも(むしろそれだからこそ)毎日苦しいのです。本当に苦しいです。「今ここ」が、明日も同じ状況で続くのか、それとももっと悪くなっていくのか知りたがっている人たちに対してできることは本当にわずかです。それを毎日受け入れざるを得ず、毎日打ちひしがれているのです。そういう事実を思い出すような本でした。

 

だからどうしろとか、これは間違っているとか、そういうことはいいたくありません。

ただ今の文脈において欠けている要素はぼんやり見えているのです。

自己効力感を奪うシステムではあるな、とよく思いますし、何より生産性に欠けるシステムだと思います。ただ、よく検討された緩和ケアはある種の積極的治療よりよほど時間も人間の手もかけなければならないもので、コストとして妥当かどうかはわかりません(そういう根拠ありそうですけど)。

けどもう人間は死ぬ前提で生きなければなりませんし、それを支えるに「誰か」を恃むこともできませんし、結局自分たちの背中に重くのしかかってくるであろうことを思うと、今のままが適切だとも決して思えないのですよね。自分が能動的になにかできるかどうかは別にして、このことに関して豊富な知識と、そして判断力と、介入するための手法をもっていなくてはならないといつも思います。かつ、それは積極的治療による弊害に対する対処法の何にも勝り必要なことに思えます。

 

緩和ケアとはたぶん、がんに限らず(そして終末期にもまったく限らず)、「生きることそのもの」に常について回る概念のように思えます。

苦痛のあるところにそれを緩和する手があって欲しいと思いますし、そんなのは一対一の営為なんかではなく、数字にすることによって、既存の構造を変える力になって欲しい。あーまとまりない。

 

普通に読み物としてもいい本です。非医療職の方にも、医療職の方にも、どちらにもお楽しみいただけると思います。そして読みやすいです。

100冊読破 2周目(21-30)

この1か月、1日1冊ペースで読んでいたらしい。

 

 1.チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷(塩野七生

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 (新潮文庫)

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 (新潮文庫)

 

塩野七生好きだったので古本で偶然見つけたものをずっと積読していました。

マキャヴェッリの『君主論』はいまだに読んだことがないのですが、じゃあその当人の短い生涯っていったいなんだったのか、みたいなところの本。まあ史実も勿論書かれているのですがそこは塩野七生なのでちょっと史学というより文学っぽいです。何よりつらかったのは自分に中世ヨーロッパの地理が頭に入っていなかったことなんですがまあまあ楽しかったです。

 

2.建築の哲学-身体と空間の探求(四日谷敬子) 

建築の哲学―身体と空間の探究 (SEKAISHISO SEMINAR)

建築の哲学―身体と空間の探究 (SEKAISHISO SEMINAR)

 

哲学の方向から分析した建築の有り様の変化。

ギリシア・ローマなんかの『神のための建築』または『学術の大成としての象徴』なんかの時代から、『建築のための建築』、そして『人間のための建築』に至るまでの思想・美術の変遷をさっぱりと切り取る内容。読みやすいです。哲学の本を読んだことがある人におすすめできそう。

 

3.福祉空間学入門-人間のための環境デザイン(藤本尚久)

福祉空間学入門―人間のための環境デザイン

福祉空間学入門―人間のための環境デザイン

 

完全に教科書。これ、実地で実習していたことがあります。車いすに乗った人間がどれくらいのスペースがあれば廊下で回転できるかとかそういうのが逐一書かれていたりする。

 

4.「インクルーシブデザイン」という発想 排除しないプロセスのデザイン(ジュリア・カセム)

「インクルーシブデザイン」という発想  排除しないプロセスのデザイン

「インクルーシブデザイン」という発想 排除しないプロセスのデザイン

  • 作者: ジュリア・カセム,平井康之,ホートン・秋穂
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2014/06/26
  • メディア: 単行本
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ノーマライゼーションに関してはこれはかなり強いなあと思います 『ズートピア』をめっちゃくちゃ思い出しました。社会にいる人間って労働生産人口とはまったくイコールではないので、プロダクトデザインについても環境デザインにしても「誰のため」を狭く設定しないことが大事なのかなと思ったり。

ちなみに著者は京都工業繊維大の教授なので身近だったりしたのもあって読みました

 

5.素手のふるまい アートがさぐる【未知の社会性】(鷲田清一

素手のふるまい アートがさぐる【未知の社会性】

素手のふるまい アートがさぐる【未知の社会性】

 

鷲田教授が京都芸大の学長になられてからの本ですね。

アート(パフォーマー)たちの営為を言語化した一冊。それは、労働ではなく、制作っではなく、「活動」で、現象なのですけれども。アートを「芸術」と訳すか「技術」と訳すかでかなり印象が違ってくるでしょうが、「芸術」を「技術」と見做して人と接続する手段として用いた場面の切り出しといったら近いでしょうか。

もともと現代思想の研究者なんですが、高校生向けの評論なんかも書かれているので鷲田氏の文章は本当に読みやすいです。

 

6.解明される宗教 進化論的アプローチ(ダニエル・C・デネット

解明される宗教 進化論的アプローチ

解明される宗教 進化論的アプローチ

 

これは文句なしによかったです!!グリックの「インフォメーションの人類史」の宗教学バージョンといってもいい。宗教学とっつきにくいなあと思っていたのですが、なんというか導入のような感じですいすい読めました。分厚いですけど面白いです。『利己的な遺伝子』とか『銃・病原菌・鉄』とか好きな人にはぜひおすすめしたい。非常に真面目な本です。

 

好きなくだりがあるのですが、宗教それそのものは存在の良しあしをなぜ問われなければならないのか?みたいなくだりがあるんですよね。我々は音楽の存在の必要性は説いてもそれを聴くことの良しあしは問わないというのになぜ宗教は問われなければならないのか?みたいなくだりがあって、さもありなんと思ったんですよねえ。もうちょっと各論に進んでみたいなと思わされた一冊でございました。

 

7.人間の街:公共空間のデザイン(ヤン・ゲール)

人間の街: 公共空間のデザイン

人間の街: 公共空間のデザイン

 

その名の通りパブリックデザインについての本。

これまで完全に構造と機能として、または都市計画としてしか読んでこなかった街に、人間のアクティビティが加わることでダイナミクスの理解につながる。有機的な都市のデザインへのアプローチという感じ。人間の歩く速度で見える景色、もっとも視認性がよく滞留しやすいデザイン、など。建築のファサードについて考えさせられますのう。

 

8.フリープレイ 人生と芸術におけるインプロヴィゼーション(スティーヴン・ナハマノヴィッチ)

フリープレイ  人生と芸術におけるインプロヴィゼーション

フリープレイ 人生と芸術におけるインプロヴィゼーション

 

ヴァイオリニストの即興演奏者の本。この本一冊からなにか得られるとは思わんけど、ジョルジョ・アガンベンの『裸性』とか黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』みたいに身体パフォーマンスの概説本っぽかった。営為を取り上げることのできる本って哲学系か芸術系くらいしかないので面白く読んだ。

コミュニケーションがそもそもその場でやりとりされる「まるで即興の合奏」であることを意識している人はあまりいないと思うけど、この本はなんとなくそれを裏付けてくれる気がする。ある「きっかけ」に対して発火するシグナルのやりとりは、合奏と会話はほぼ対等のそれやと思う。まあでも芸術系の、とくに受動的でなく能動的な楽しみ方をしている人でないとなんとなくの理解は難しい気がします。

 

9.活動的生(ハンナ・アーレント

活動的生

活動的生

 

一応この本ジャンルとしては政治哲学にあたるようなのですが、自分としては実存主義構造主義のあいの子として楽しく読みました。というかとてもうれしかったのがこれを読み始めたときに、自分の仕事について「それは労働・制作・活動のどれにあたると思います?」と聞いてもらえたこと。結構自分なりに考えながら読めたので面白かったんです。

本を読むときに他人の目を巻き込むというのは面白いことやなあと思います。

 

実際に自分の答えとしては、「行為する人間の知覚によって変化しうる」だと思います。勿論客観的にすべての要素を含むわけですが、ある人にとっては労働でしかないし、ある人はそれを制作として転換しうるし、ある人はすべての現象を肌で感じてそれ自体を行為、活動とすることもできる。と思う。今の暫定的な結論。

 

 10.パブリックライフ学入門(ヤン・ゲール)

パブリックライフ学入門

パブリックライフ学入門

 

『人間の街』が面白かったのでこれも読んでみました。それぞれの都市においてその動線・滞留・関係が生み出すものと生み出せないもの、変化した理由について。

おおざっぱな都市論の歴史についても書かれていて自分には有難かったです(別に専門に学んでいるわけでもないし)。

 

結局いま、どの本を読んでいても公共スペースというのはインタラクションの場として大きく取り上げられがちで、身体性というか身体という逃れられない器を通して知覚する都市・建築についてもっと敏感になるべきだっていうんですよね。車の速さよりも目の高さに焦点をあわせること、個人の歩く速度、自由にいきる余暇時間が都市に何をもたらすか。そういうことを考えるのが結構好きです。また街の写真を撮りたくなる。

マッチングアプリとマッチング記

やり始めて1週目くらいのときの記事がこちら。

streptococcus.hatenablog.com

 

というわけで、だらだら続けて2か月が経過したので、ここいらでまとめておこうとおもいます。というかもうあのアプリ辞めようと思いまして。

 

 

結論

実際に1度でもお会いする機会のあった方は、5人以上10人未満でした。

やりとりをした方はその10倍くらい。

いいねの総数は結局たぶん200~250弱くらいではないでしょうか。月平均で割り出されるのでイマイチよくわからなかったりします。

 

前回の記事でいくつか書いたことについて、その詳説というか結果・結論を書いていこうと思います。

 

 

 

いいねを月単位で購入し、メッセージを有料であける

「いいね!」って本当に思ってるかそれ?

っていう発言についてはこれを否定したいと思います。

向こうはシステム上月あたり30(だったかな)のいいねの上限があり、また下限はないためにそれを使い切るのが基本なのです。つまり、Twitterでいうと「とりあえずふぁぼっとけ」みたいなところがあります。自分は他者を選別するのに迷う必要はなかったのでした。

 

 

デメリットの発生とその対策

pairsはfacebookのデータを使用しますが、その内容は公開されません。

かつ、他の同性・異性ともコミュニケーションをとれるアプリではありません。メッセージは閉鎖空間です。何が起こるかというと、「出会い系より出会い系」ということです。つまり目的はいくらでも偽れるわけです。そしてそれは自分のもっているコミュニティに影響しない。つまりひどいことをしたから例えば風評が下がるとかそういった危険がないわけです。実際まあいってみれば肉体関係が目的の方もいらっしゃるわけで、そういう人間を事前に防ぐために自分は途中から大幅にプロフィールを変えました。

 

趣味をめっちゃ濃くする。

自分の場合は楽器やっていたりカメラが好きだったり、あとは音楽の趣味も結構変だし読んでいる本の内容は哲学とか人類学とかなので非常にとっつきにくい印象を与えます。

そうすることでむしろ安易ないいねを防げた印象はあるように思えます。

マッチングアプリのくせにアンマッチを目的としたプロフィール構成とかなんたる矛盾。

 

 

人間ザッピング

実際に会うに至った方は皆さん結構変わっていました。最初の1~2名は正直つかみあぐねていたので些か自分とは傾向が違ったなあとも思いますが、その後数名の方とは初対面でもごく楽しく時間を過ごせたように思います。

で、途中から自分の目的が結構変わってきていまして、それというのもだんだん「面白そうな仕事をしている人を探して話を聴くアプリ」になっていました。

勿論それに至るにそもそもやりとりが続くかどうかというのはあったんですが、それにしても自分の仕事を超えていろんな人の話を聴けるのは面白かったです。まあいうてみたらTwitterみたいな使い方をしてしまいました(こいつ本当にだめだな

 

でまあ、マッチング後に関して実際に会ったりして第一印象がよかった人の特徴、つまり自分が求めている傾向がだんだんわかってきました。

①顔・身長にはそんなに興味がない、ただ体型には興味がある

実際にお会いしてみていい印象をもった人たち、別にイケメンではなかったように思います。むしろ身長が高かったり服が洒落ていても、ああこのひととは関わりたくないなあと思う人もいらっしゃいました。

ただ、いい印象をもった人たちは全体的に柔和な印象を相手に与える人が多かったです。肩幅が広かったり骨太だったり。

 

②仕事の仕方や生活スタイルには興味がある

結構これはやりとりの中でもメインになっていて、生きていくなかでどんなふうに仕事と私生活の折り合いがついていっているかとか、そういうところは話の中から自分はよく情報を拾っていたようです。

 

③受容的な態度か否か

これに関しては難しいのですが、自分だから思うことかも知れません。

日々弱い立場の人間を相手にしているので、丁寧さを欠いたり、配慮する気がないのだなあ(ここでいう配慮はレディファーストとはまったく関係ありません)と感じたり、そういう場合には「きっと次はないな」と思いましたし、実際そうなりました。それはメッセージの段階でも実際に会ってみた人でもそうでした。

 

④ぶっちゃけ年収もそんなに興味なかった

一応書く欄はあるものの、正直業種による区切りはそんなに気にならなかったです。

結局なにが大事かというと、志向性に問題があったように思います。仕事に展望を持っていたり、趣味のなかになにか気になるものがあったり、ライフスタイルが面白かったり、そういう人に自分は興味をもっていたようです。

 

⑤面白い使い方をすれば面白い

自分のように終始仕事に明け暮れている人間には結構いい出会いというか、刺激になるやりとりがたくさんありました。かなり余分な効果ではありますが、仕事がんばろうって思えたのは副産物にしては大きかったと思います。魅力的な仕事をする人は魅力的に映るものです。 

 

 

 

そんなわけで、いったんこのアプリを終わろうと思います。

自分としては一定の成果が得られ、また納得もしたのでまあいいかなという結論に至りました。3か月という期間は長すぎず短すぎず、わりと適切だったように思われます。何より自分には、多くの人とメッセージを交わすということがあまり得意ではなかったようで、随分神経を遣いました。

 

最後に、もしこれからpairsをやってみようかなあと思う女性がいらっしゃるのであれば、「収支が損益になるようであればそんなものは続けるべきではない」ということだけご紹介して締めくくろうと思います。私の収支がどうだったかは別として。